有限会社 三九出版 - ――【隠居のたわごと】――   『メモ風旅日記・京都』


















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『メモ風旅日記・京都』

小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)


これを旅といっていいのかどうかわからないが,そのころ,無為徒食の生活を送っていたわたしは,どこにたどり着くのかもわからない人生の旅の途中にあったので,じっさいの生活の場もそこがどこであろうと,わたしにとっては旅の途中であることに変わりなかった。振り返れば,京都はちょっと長い旅であった。
昭和37年9月のある日,居候の身であるにもかかわらず,わたしは友人に「京都に行ってみたいがどうだろう」と言ったら,「行きたいなら行ってみたらいい」と,蓄えてあった金をポンと出してくれた。と言うと,いかにも友人は金持ちのように聞こえるが,友人は引き売りの八百屋をしていて,とくに余裕のある生活をしていたわけではない。友人がわたしのわがままを聞き入れてくれたのは,いまにして思えば,友人には無償の精神があり,わたしにはそれに付け入るやくざな精神があったということだろう。わたしは朝夕二食の賄いつきアパート晃和荘の住人になり,その京都でふたりの人間に出会った。
ひとりは,デザイナーが描いた原画を写真製版用のフイルムに色分解して機械捺染用の原版を作る職人で,知り合ったのはアパートの食堂だった。わたしたちは食事時間の終了間際に食堂に駆け込む常連で,それが機縁となって,いつのまにか言葉を交わすようになった。わたしは28歳。かれは25歳で,若狭の人間だった。
かれにはどこか暗い翳(かげ)があって,当初食事中もけっしてわたしと日を合わそうとしなかった。京都に来て日の浅いわたしには,京都も若狭も未知の土地だった。何かの折にかれが,(それは冬さなかの冷たいしぐれの降る日だったが)「これでも京都の空は明るい。ぼくの在所の空はいつも暗い」と話すのを聞いたときに,わたしは土地の精霊とでもいうべきものを背負った不幸な人間がいることにかすかな衝撃をうけた。かれの暗さには目に見えない隔壁のようなものがあって,その奥にあるものを覗き見ることを許さなかった。そこには何か他人の理解を拒絶するものがあった。のちに水上勉の若狭に取材した小論を読んだときに,ああ,あのときのかれがここにいる,とおもった。
それから1年半後にわたしは京都を離れた。その数日前,かれは餞別にいい所へ案内しようといって,わたしを七条大橋の近くの曖昧宿につれていった。かれはわたしに女を紹介すると,なじみの(とわたしには見えた)女と部屋に消えた。そのもの慣れた行動にはいっもの暗い翳がなかった。その翳のなさが遐(と)遠(お)い日にあったかれの不幸――かれ自身,あるいはかれの血に繋がるものが引き起こした不幸――のシルエットを一瞬かいま見せたような気がした。別れの日,かれは京都駅まで見送ってくれたが,そこにはいつもの無口で,暗い顔のかれがいた。
もうひとりは,大徳寺の塔頭,聚光院の住職である。当時の京都にはいまほど観光客がいなかった。多くの寺院は拝観料を取らなかったので,懐に余裕のなかったわたしでも,いまでは目にすることのできない寺院の名物を見てまわることができた。
その日,わたしが案内を請うと,住職本人が出てきて庫裡に通された。「関東の方らしいが,どこから来られた」と訊かれたので,「千葉から」と答えると,「自分は千葉の柏の生まれなので,それは懐かしい」と言った。昼食を振るまわれ,寺のいわれを聞かされたあと,いまでは考えられないことだが,茶室(閑隠席),客殿の狩野永徳の襖絵,それに名物という茶碗を見せてくれた。最後に利休の供養塔に案内された。それからは懐がさびしくなると,昼食をこころあてにたずねた。しかし,昼食だけがねらいというわけでもなかった。住職からは,利休のこと,茶室のこと,茶碗のこと,その他,茶道についての多くの知識を教えてもらった。それは教科書的ではなく・住職の人柄で色揚げされた知識だった。「利休さんは『利休百首』のなかで,茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたててのむばかりなる事と知るべし,と言っておられる。いつか,この言葉をよく考えてみなされ」――わたしは,住職のこのときの言葉を自分なりに注釈しようと,利休という迷路に入ったままいまだに抜けられない。
それから5年後の一日,晃和荘アパートをたずねる機会があったが,製版職人はもうそこにはいなかった。管理人の話では,かれは仕事仲間の人妻とわりない仲になって在所の若狭に逃げたという。そのときにたずねることのできなかった聚光院住職のその後の消息については仏のみぞ知るで,今でもこころ残りである。
製版職人は不幸のひとつのかたちを,聚光院の住職は茶のひとつのかたちを教えてくれたが,わたしはかれらに何を残したのかわからない。所詮わたしは一介の旅人でしかなかった。確かなことはわたしの放蕩無頼の青春が京都放浪とともに終わったということだった。
前回,春の奈良はパステル調の色合いをもったやわらかなまちだと書いたが,秋から冬にかけての京都は鋭い描線で描かれた山水画(墨絵)の輪郭をもったまちだ。そのまちで出会ったふたりの人間もまたわたしのなかに鮮やかな輪郭を残している。
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