有限会社 三九出版 - 「食べる」ということ


















トップ  >  本物語  >  「食べる」ということ
《自由広場》

或る戦中世代の屈折した思い 
                      「食べる」ということ

                            鈴木 雅子(東京都国立市)

 メディアで紹介された店,おいしいと評判の店などに,パンや菓子等を買う為に行列している人達を見たりすると,私はちょっと皮肉っぽく「平和だよね」と言いたいような複雑な気持ちになる。非難しているのではなく,ただ,食べたいものを口にできるという事がどんなにしあわせな事なのか,それは当り前の事ではないのだよ、とついそんな目で見てしまうからかもしれない。私ももちろんおいしいものは食べたい。また,そういう声にこたえる為に努力している方々に敬意を惜しむものでもない。だが御馳走を前にすると,時に,さきの戦争中の記憶がひょいと頭をかすめる事があり,この思いは一生消えないのではないかと思う。だからおいしいものを沢山いただけるしあわせに感謝して有難く頂く。
 私は今年86歳になる。戦争が終った昭和20(1945)年は17歳だった。行列には忘れられない思い出があるのだ。昭和17年頃か。もう大分食糧事情は悪くなっていて,長いこと菓子などを口にする事はなかった。そんな時,どこそこの店で甘納豆を売ると聞きとんで行った。甘いものに飢えていた人達が行列をつくり,売り出すのを待っていた。そこに通りかかったおばあさん。子供の私にはおばあさんと思えたが,今思うと50代位か。かっぽう着姿の愛国婦人会の人だった。この非常時に甘納豆ごときを買う為に並ぶとは何事か。「非国民」だとくどくど文句を並べられ,人々はこそこそと列をくずしたが,その後は覚えていない。多分一粒でも食べたい一心であとでまた並んだのだろう。 もう一つは昭和20年1月,私は女学校5年生。といっても授業はなく学校工場で働く毎日。もんぺに防空頭巾,身元を示す名札と一握りのいり豆を入れたカバンを肩からかけての学校生活だったが……。卒業後は上級学校へは進まず,ひき続き挺身隊で働くようにと文部省から通達があったらしいが,進学を志す友も多く,私もT女子大を受けた。合格発表の日,もよりの荻窪駅まで来たが,落ちていたらと不安で駅に入るのをためらい,ちょうど駅前のおそば屋さんが当時は雑炊食堂になっていて,人々が並んでいたのでそっちに方向転換,雑炊を食べ満足して帰宅した。その時の雑炊は,忘れもしない,米より水分の方が多めの,ニシンの入ったうすい粥だったが,当時としては御馳走だった。この時代は,腹を満たすものがあれば,それを口に出来るだけで有難かったものなのだ。こういう経験もあるので,食べ物に関しては今の方々には想像もできないような屈折した思いがあって素直になれないのかもしれない。とにかく,つい70年程前にこんな時代があったのだが,今まわりを見ると,戦中世代は減る一方、戦後の豊かになってから生まれた人の方が多いのだから,そんなことを考える人がいないのは無理もないのだろう。
 戦争中は,隣組ごとにくばられたわずかな野菜を数軒の家に分配,一世帯分は切り分けた大根などほんの少し。多分家族の為に自分の分を減らしていたのだろう,一時母の目が見えなくなった事もある。それでも運よく空襲で焼けなかったから,買出しに行って和服やお雛様などと引き換えに雑穀の粉などを分けて貰えたのは恵まれていたと思う。また当時はどの家も庭をつぶして畠にしてカボチャなどを作り,サツマ芋の茎や葉も食べ,キャベツの外側の,今ならはがして捨てるような堅い葉も細かく刻み雑粉とまぜて焼き――今の世なら犬でも横を向くようなものだろうが,有難く食べたものだ。
 戦後もしばらくはこういう状態が続いた。きりがないから省くが,こんな体験を経て,食べ物を無駄なく大切に扱う生活が身についてしまった私は,今,ただ食べまくる芸人とか,やりたい放題食べ物を粗末にしている映像を見たりすると心が痛む。大切な食べ物は味わって大事に食べて欲しいと痛切に思う。
 かつて一杯の水,たった一つのお握りさえ口に出来ずに戦死した方が大勢いた。銃後(この語ももう死語か)の人達はそれに比べればまだましだったろうが,皆飢えていた。戦争中に亡くなった人達が今のこの様を見たらどう思うだろう。あの時代を経験しない人達には実感できず,何を言っても無駄かもしれない。
 私は今でも御馳走を前にすると戦争中に83歳で亡くなった祖父の顔を思い浮かべ,老後の楽しみだったろうに,おいしいものを沢山食べさせてあげられなかったのを(私に責任はないのだが)申し訳なく思う。飢えを知らない人々に言いたい。いつまでもこんな思いを引きずらざるを得ない者が,少数かもしれないが居るのを忘れないで。今豊かに好きなだけ食べられる時代に生まれ合わせたしあわせに感謝して,戦争のない平和な日々を大切に守り続けてほしい。私は,懐と相談しながら自分で考えて食材を買い,料理して食べている普通の主婦だ。が時折,心の奥深くに刻み込まれた記憶がふいと頭をもたげる。これは多分私が死ぬまで抜けない心のとげだと思う。




投票数:40 平均点:10.00
前
亜熱帯気候の中で〜宮古島市〜
カテゴリートップ
本物語
次
風 呂 当 番

ログイン


ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失