有限会社 三九出版 - ザビエルを日本に導いた3人の男       1.はじめに―生い立ち 


















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《自由広場》 
            ザビエルを日本に導いた3人の男
                    1.はじめに―生い立ち


                    山本 年樹(神奈川県川崎市)

 ザビエルが戦国時代の日本に来てキリスト教を広めたことは,歴史の教科書にとりあげられており学校で学びます。しかし,彼がどのように育ち,どうして日本に来ることになったのかはあまり知られていません。そこで,私は掲題の切り口からザビエルの生涯にスポットライトをあててみたいと思います。

(1)ザビエルの誕生
 ザビエルは16世紀の初めにスペインの北のザビエル城で生まれました。今でこそスペイン領ナバラ州となっていますが,当時はバスク王国として700年の歴史を誇っていました。父ハッスは宰相,母マリアは名門士族アスピルクエタの姫君として2つの城を相続していました。ザビエルは3男2女の末っ子として生まれました。兄2人は武人としての道を歩んでいましたので,敬虔なクリスチャンである両親は,ザビエルには聖職者になることを願っていました。ザビエルの名前はフランシスコといい,父ハッスがイタリアのボローニア大学で学んでいた頃,アッシジの聖人フランシスコに深く感銘を受けました。そこで聖人にあやかって我が子にその名前を命名した次第です。ザビエルは両親の愛情につゝまれ,活発な幼少時代を過ごしますが,ザビエル城をめぐる環境は極めて厳しいものがありました。

(2)スペインとの攻防
 隣国のフランスとローマ教皇との激しい対立から,ローマ側の盟主としてスペイン・アラゴン国王がフランスに対して宣戦布告をしました。そしてフランスへの進軍のためナバラ国王に対して一方的なスペイン軍通過の通告をしてきたのです。かつてフランス軍を撃退したこともある誇り高いバスク人たちは,ただちにスペインと一戦を交える決意でした。ザビエルの父ハッスは王宮のあるパンプローナに詰めきりでスペイン軍を迎えることになりました。しかし,山岳の戦いでは地の利を得ているバスク軍も,平地での戦闘では強大なスペイン軍に劣勢となり,首都は数日で陥落しました。ナバラ国王はフランス側の低ナバラに脱出,バスク軍の一部は北のバスタン渓谷まで退却し抵抗を続けました。しかし,大勢は決し,3年後にスペインに併合されました。
 国王のそばで王国の危機を支えてきたハッスは,心労のためついに倒れ永眠しました。
 ザビエル9歳の時でした。

(3)ザビエルの少年時代
 父の死後は長兄ミゲルがザビエル城主として家族の居城となっていました。人望のあったミゲルは頼りにされ,スペイン統治に対する抵抗運動の根城となっていました。先のナバラ国王の遺児がフランス王女と結婚し,義父のバックアップを受け,ピレネーを越えてナバラに侵攻してきました。地元のバスク戦士もこれに呼応し,パンプローナに迫り開城させました。しかしスペインも大軍を派遣し,首都を奪回し,バスク軍を再びバスタン渓谷まで追いつめました。(※)戦線は膠着状態が続き,長期戦の様相を呈していました。そして,スペイン国王から大赦が出され,戦争は終結しました。ザビエルの2人の兄も罪を赦され,城に帰って来ました。平穏な日々が戻ってきました。
 ザビエルは好奇心も強く,遊びたい盛りだったので,近くにあるベネディクト修道院をよく訪れていました。そこの修道士から聞いたイタリアの若者マルコ・ポーロの冒険談が強く心に残りました。父と叔父とラクダの隊商を組んでベネチアからペルシャ,アジアのシルクロードを通り,モンゴルという国に行く長い旅の話は,初めて聞くことばかりでワクワクしながら聞いていました。さらに遥か東の海にジパングという大きな島があり,その国の屋根はすべて黄金で葺かれていると,言います。本当にそんな国があるのだろうかとザビエル少年の想いは広がっていきました。
(4)ザビエルの旅立ち
 ザビエルは19歳となり,家族の思いを一身に受けてピレネーを越えパリに向かいました。彼の地で神学を学ぶためでした。ふたたびバスクの地に帰ってくることはありませんでした。

※ミゲルは捕虜となり死刑宣告まで受けましたが,弟のファンの助けで首尾よく脱走し,バスク軍と合流して抵抗を続けていました。





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