有限会社 三九出版 - 恐怖のルーマニア,クルージュの東欧国際癌会議


















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☆超音波医学国際会議出席異聞(16)
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        恐怖のルーマニア,クルージュの東欧国際癌会議
          和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)

これはルーマニア革命(1989)以前のチャウシェスク独裁恐怖政治時代の話である。
1974年初め,ルーマニアのクルージュで本年9月開催される第5回東欧癌学会キルクタ会長から突然の招待状が来たのには,共産圏からの初めての招待だけに驚いた。
しかし,学会期間中の滞在費学会負担や,共産圏には多少興味もあったので招待を受諾し,乳癌,肝癌の超音波診断の2題の演題と抄録を送付した。
共産圏入国旅行の複雑な手続きを何とか済ませ,9月20日,正午,羽田空港出発,パリ1泊,22日午後ルーマニアの首都ブカレスト空港に到着した。初めての共産国への入国だけに緊張感に襲われた。案の定,入国管理は極めて厳しく,税関検査は女性兵士が担当し,銃を突きつけながらの所持金やトランクを開けての想像以上の恐ろしい検査には,今回の会議参加が何とも後悔されたのだった。ホテルに着いても,フロントの事務員も全く横柄で不親切だったのには実に腹立たしい思いであった。また街を散歩すると,メインストリートで堂々と闇ドル買いや電卓の闇買いが多く寄って来たのには,これが共産国かと驚くだけだった。
翌9月23日,東欧癌学会が開催されるクルージュに向け出発した。空港では国内旅行というのに再び厳しい荷物検査があり,搭乗待合室では航空便出発時間の表示板は無く,係官が行き先便を声高に告げるだけだった。やっとのことで,クルージュ行きの飛行機に搭乗することになったが,飛行機まで乗客全員兵士に引率され,整然と並んで歩かされたのには参った。古い小さなプロペラ式の飛行機で,機内でのビスケットやコーヒーのサービスが全て有料とのことには,またまたびっくり。約1時間の飛行で, ブカレスト北西部200キロのクルージュ空港に到着した。 空港ロビーに,「Dr.T.Wagai」と書いた看板を持った人がいて,今回の東欧癌学会の事務長と分かり,ルーマニア到着以来,初めてほっと安堵した気持ちになった。学会で用意してくれたホテルに車で案内してもらった。小さいホテルだが,ホテルの皆さんの家族的な親切さに,ブカレスト到着以来の恐怖心や不愉快さが薄らぐ思いだった。しかもこのホテルは今回の東欧癌学会会場となったクルージュ大学の真ん前にあったのは,学会の親切な配慮だった。
その後,学会役員の案内でクルージュ癌研究所に招待された。ここで初めて,今回 の東欧癌学会のキルクタ会長がこの癌研究所の所長であることを知り,そのキルクタ教授の心からの歓迎を受けたのは感激だった。当日夕刻,東欧癌学会の開会式がクルージュ大学大講堂で約1000名の参加者により行われた。医学生による素晴らしいコーラスでの簡素な開会式典後,この大学の2階の大ホールで歓迎カクテルパーテイが行われた。キルクタ会長が開会の挨拶の途中,私をステージ上に呼び上げ,壇上の床をドンドンと靴で踏み鳴らしながら, 「このドクターは,この地球の反対側の日本からただ一人参加してくれたドクター・ワガイである」と紹介,参加者全員の盛大な拍手の歓迎を受けたのには,予想もしなかったことだけに心から嬉しかった。
9月24日より,東欧癌学会が始まった。初日の午前,私は肝臓癌の分科会で「肝臓癌の超音波診断」の1時間の招待講演,次いで主会場で「乳癌の超音波診断」の1時間の招待講演を行った。どれも多くの質問が寄せられ,講演後もロビーで新聞記者のインタービューを受けたりするなど大成功だった。このような楽しい雰囲気からは,共産圏にいることを忘れるほどだった。会議の合間を縫ってクルージュの町の見物に出かけた。町の中心の広場はとても美しく,歴史的な大聖堂や多くの素晴らしい教会など,格調高い町だった。会期中,大会議場での学会主催のコンサートに招待された。これは,今回の学会の関係医師やクルージュ大学医学部学生によるオーケストラとのことには,その素晴らしい演奏と高い教養に感心した。
9月26日夕刻,簡単な閉会式が行われ,9月27日,クルージュを出発した。空港でまたもや厳しい税関検査を受けるなど,クルージュでの楽しい印象が瞬時にして消し飛ぶ思いだった。ブカレスト空港での再度の厳しい荷物検査後,やっとの思いでオーストリア航空で,ウイーンに向かって離陸した。離陸した瞬間,東欧各国の参加者達も大喜びで,異口同音に「Everything is very difficult,here.」(ここでは,何でも非常に難しい)と叫んでいたのは,何とも不思議な光景に思われて驚いた。懐かしのウイーン空港に到着,自由の空気の有難さを身に沁みて実感したのだった。
15年後の1989年,共産圏の崩壊に際し,ルーマニアにも激しい動乱が発生,このクルージュの町がその発祥となった様子を,新聞やテレビで見た時は,あの美しい町で,あの善良な市民がという信じられない思いだった。

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