有限会社 三九出版 - ザビエルを日本に導いた3人の男


















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☆《自由広場》 

          ザビエルを日本に導いた3人の男 
                    5.日 本 布 教 

             山本 年樹(神奈川県川崎市) 

(1)鹿児島上陸
ヤジローを伴ったザビエル一行は,天文18年(1549年)8月に薩摩に入港し,早速伊集院城にて15代当主島津貴久と会見しました。ヤジローは商人同士の昔の罪は不問に付され,通訳をつとめました。貴久は,異国の宣教師に関心を寄せ,さまざまな質問を浴びせました。ザビエルたちがどこから来たのか,キリスト教とはいかなるものか, ポルトガルの国の様子はどうか, 国王とはどんな人か,鉄砲は持参したのか,等々興味は尽きず会見は長時間に及びました。数日後,貴久より布教を許すとのお触れがあり,ザビエルはヤジローを介して各地でキリスト教を説いて歩きました。しかし, 町の人々は異国の教えに戸惑い, ザビエルを取り巻き見物するばかりでした。一方,武士などが毅然として神の道を説くザビエルの姿に感銘を覚え入信するものがでてきました。市来城の家老は洗礼を受け,ミゲルと名乗り家族・家来15人も彼に従いました。
地元寺院の僧たちは,キリスト教に反発して貴久の許へ禁教とするよう訴えてくるようになりました。 〝ただ一人の神を信ぜよというのは危険であり,領主をおろそかにするもの″と言うのです。一方ザビエルたちに南蛮船平戸入港の知らせがあり,これを機会に都に上り日本の王から布教の許しを得たいと考えるようになりました。暇乞いをするザビエルたちに,貴久は内心ほっとしながらこれを赦し,小船を与えました。ザビエルは,同行の修道士フェルナンデスが日本語も上達したので通訳として使うことゝし,ヤジローは鹿児島での信者の世話役として残すことゝしました。

(2)平戸,山口そして京ヘ
20歳という若い平戸藩主松浦隆信はザビエル一行を歓迎しました。ミランダ船長が持ち込んだ珍しい交易品が気に入ったようでした。領民への布教も認めました。しかし,ザビエルはしきりに都行きを考えていました。そこでとりあえず山口まで行き,そこから上京の方策を練ることゝし,平戸を後にしました。
当時,山口には日本一の大名といわれた大内家の居城があり,当主義隆が権勢をるっていました。ザビエルとの会見に臨んだ義隆は,遣明船を出すなど海外貿易にも力を入れており,インド・マラッカの話など興味深く聞いていました。しかし,ザビエルの説教で〝日本の寺で男色が行われている″と非難したところ身に覚えのある義隆が突然不機嫌になり,会見は不首尾となりました。
逃げるように山口を後にしたザビエル一行は岩国から海路堺行きの船に乗りました。そこで親切な商人に出会い,堺の日比屋了桂という豪商への紹介状を書いて貰いました。
豪商の屋敷にたどりついたザビエルは歓待を受け,都に行くという知り合いの商人一行に同行することゝなりました。ザビエルの気持ちは高揚していました。これから日本布教の道が開かれると,大きな期待を寄せていたのです。

(3)都で見たもの
堺から2日で都に着いたザビエルたちは,羅生門で呆然と立ちつくしました。応仁の乱以来の戦乱で,町の大半が焼き討ちされ,廃墟ともいえる無残な姿でした。
気をとり直したザビエルは,まず大学があるという比叡山・延暦寺を訪れました。しかし,旅で摺り切れたみすぼらしい身なりの一行は,当時の慣例であった贈り物もなく,門前払いとされました。都に引き返し日比屋家の知人を通じ御所での天皇謁見の申し入れをしましたが,こちらも贈り物がないとかなわぬことが判明しました。平戸から取り寄せると言いましたが,異国の僧のことは信用されず相手にもされませんでした。
知人の話では,〝帝には今は力がなく,ザビエルの布教には役に立たないこと,そして幕府を開いた足利将軍も今や家臣に追われ坂本へ逃げていること″とのことでした。町角で説教しようとするザビエルたちに,子供たちが,はやしたてゝ石を投げてくる始末でした。デウス(神)を大嘘(だいうそ)と言い立てるのです。
ここに来て,ザビエルは都のことはあきらめて,再度一からやり直す決意を固めました。 
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