有限会社 三九出版 - ザビエルを日本に導いた3人の男


















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☆《自由広場》

          ザビエルを日本に導いた3人の男 

              6.終 焉 の 地 

            山本 年樹(神奈川県川崎市)

(1)山口から豊後へ
都での失敗を教訓として,ザビエルはそれまでの質素な身なりを改め,ローマ教皇使節としての豪華な絹の聖衣を着て,高価・貴重な贈り物を携えて,再び大内義隆と会見しました。義隆は大喜びで,領内での布教を許しました。ザビエルたちの努力で信者も少しずつ増えはじめた頃,豊後の大友宗麟から丁重な招聘の手紙が届き,ポルトガル船が入港したので是非豊後に来てほしいとありました。この2年間の日本滞在中,インドからの書翰が途絶えており,彼の地に何かあったのではないかと気になっていたザビエルは豊後・府中(大分)に向かいました。会見した宗麟はザビエルの謙虚な人柄に強く惹かれ,後に入信しました。大歓迎を受けましたが,インドからの便りはなく,ザビエルはひとまずインド・ゴアに戻ることとし,宗麟の家臣をインド総督への使節として従え,離日しました。

(2)ザビエルの決意
インド行きの船内で,ザビエルは日本のことを振り返り,中国入りを考えるようになっていました。日本での布教で大きな壁となった仏教は中国から伝来したものであり中国でキリスト教を広めることができれば,世界のすべての大陸に教えが行き渡ることになります。そして日本にもそれが伝わり,仏教のように受け入れられると考えたのです。ゴアに戻ったザビエルは,大世帯となっていたイエズス会インド管区のゴタゴタを片付けた上で,インド総督から中国行きの許可をとりつけました。ザビエルの古い友人ペレイラを中国大使として任命して貰い,彼の船サンタ・クルス号で明国入りをするという段取りでした。ザビエルにはローマ教皇からの信任状があり,2人で協力し合う予定でした。

(3)マラッカでの妨害
ゴアを出航し,ひとまずマラッカに到着した一行は思わぬ妨害にあいました。マラッカのアタイデ司令官がサンタ・クルス号を差し押さえ,積荷の胡椒まで没収したのです。表向きはジャワ人のマラッカ攻撃に備え町の防衛の為船舶を確保というのですが,ペレイラの中国入りで莫大な富を得ることへの妬みは明らかでした。ザビエルの懇願も通ぜず,困り果てていた頃,両者の共通の友人が仲介することになりました。結局,「ペレイラは残り,彼の胡椒も残す。代りにアタイデの部下と彼の商品を積んで出航する。」ということで結着しました。これでは,中国入りの大義名分がなく,鎖国中の明国官憲に捕まることは明白で,ザビエルの布教の道も閉ざされてしまいます。それでもザビエルは一縷の希望を捨てませんでした。中国行きは神から授かった使命であり,どんな条件でも行かなければならないとの固い決意でした。

(4)広東の小島
サンタ・クルス号はその年の8月末に,広東の沖合いの小島・上川島に着きました。ポルトガル船の密貿易の基地となっており,大陸にも近く,中国商人も交易品を小舟に積んで島の港に来ていました。ザビエルは早速地元の通訳を雇い,明国入りの方策を探しました。しかし,外国人を案内して中国に渡るとなると,見つかると死罪もあるということで,尻込みして誰も話に乗ってきません。ザビエルは思いきって虎の子の胡椒20ピクル(120キロ)を約束し,やっと一人の中国人を見出しました。胡椒1キロ・金1キロという時代で,大きな屋敷が買えます。ポルトガル船団の代表から,自分たちは10月末にはこの島を出るので,明国入りは11月にしてほしいとの申し出がありました。神父が逮捕され,島へ官憲捜索の手が及ぶことを恐れていたのです。
しかし,約束の11月15日になっても中国商人の迎えの船は現れません。やはり厳罰を恐れたのでしょうか。10日以上たっても姿を見せませんでした。やがて,ザビエルは高熱に見舞われました。床に就いた彼は自分の最期が近いことを悟ります。そして思い出が走馬灯のように蘇ります。生涯の師ロヨラ,ポルトガル・ジョアン3世,そして日本人ヤジロー,最後に故郷のバスクの山々,少しずつ遠ざかっていきます。1552年12月3日,東洋の使徒,フランシスコ・ザビエルは46歳という短い生涯を閉じました。
マカオが開港されたのは,それから5年後のことでした。
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