有限会社 三九出版 - とみえ旅館での お遍路さんとの 触れ合い


















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☆《自由広場》 

        とみえ旅館での お遍路さんとの 触れ合い 

             田中 富榮(徳島県徳島市) 

去年の5月,「東京歩き遍路交流会」の第20回を記念して会員の皆様からお招きをいただき,杉並区の「四宮区民集会所」での交流会に私も参加させていただきました。会場には19名の方々が出席されておられ,四国霊場札所八十八ケ寺巡拝の折,阿波一国歩き遍路の途中わが家に泊まっていただいたお遍路さんと再会し,懐かしさが込み上げてきて感激しました。たった一夜の宿ではありますが,夕食を囲んでの楽しい会話や心の重荷を吐露されるお話に耳を傾けたりして,翌朝お遍路さんをお送りするときは道中の無事を心から祈って見送りをしています。「東京歩き遍路交流会」の事務局長をされている友人のTさんを介してお遍路さんの宿を提供しているうちに,わが家は「とみえ旅館」と呼ばれるようになり,私は遍路宿のおかみさんになっています。
お遍路さんとの触れ合いを通じて色々な人生を垣間見る「とみえ旅館」でないと味わえない一瞬の「人情こぼれ話」を紹介します。

東京歩き遍路の会員であるIさんのご紹介で,とみえ旅館で出会った長野県在住のNさんはご詠歌に興味をもっていました。それで私からご詠歌のお接待を申し出て,短い時間でしたが,ご詠歌何曲かお唱えさせていただきました。人に聴いてもらうのですから,高野山で習った正式の作法で所作の立ち振る舞いをして曲をお唱えしました。すると静かに耳を傾けておられたNさんの目から突然大粒の涙がこぼれ落ち,何曲かお唱えするたび,ハンカチで目頭を押さえてあふれ出る涙をどうすることもできない状態でした。泣いているNさんを前にしてご詠歌を止めようかと迷いましたが,私はあるがままに任せて時間の許すかぎり唱え続けました。2時間ほど唱えた後,聴き終えたNさんは歩き遍路でしたので先を急ぐため,私が何のお構いもしないまま,わが家を後にして立ち去って行かれました。別れ際に「ご詠歌を聴く前と聴いた後の今とでは遍路への気持ちが変わりました。ご詠歌はただの歌ではなく道ですね」と言われたので,「そうです。詠歌道です。お経の一つであり,お唱えすることによって先祖の魂を慰め,自分の心を静め,そして生きたまま仏になる即身成仏への修行の道なのです」と,私は「高野山詠歌一般講習会」で学んだ知識をお話しました。ご詠歌をお唱えしている間,流れ落ちたNさんの涙が何だったのか,私にはわかりませんが,―Nさんの心を揺さぶるほどの何かを感じられたのは確かでした。
それから何年か過ぎたある日,思いがけなくNさんがお遍路の途中わが家を訪ねて来られたのです。玄関へ入ってくるなり,頭を巻いていたスカーフを取って「これを見てください」と云いました。剃髪をして尼僧になっていました。「あなた,得度なさったのですか?」。私はびっくりして茫然と立ち尽くし,Nさんの坊主頭をしばらく見つめていました。思い切ったことをしたものだなあ! と口がきけませんでした。するとNさんが「以前から出家したいという願望を持っていました。心が迷いながら遍路道を歩いていたのです。とみえさんのご詠歌を聴かせてもらってから仏の道に入る決心がつきました。わが家の近くのお寺で得度し,これから修行をしてゆきます。それでとみえさんにご報告したく,お遍路の途中に立ち寄らせていただきました」と。和やかな笑顔が迷いから脱却できたことを物語っており,明るく笑い,以前出会ったNさんとは別人のような印象を受けたのです。この時も私はご詠歌をお唱えしてNさんの門出をお祝いしました。そして何曲かのご詠歌をテープに吹き込み,お接待させていただきました。
その後彼女は高野山で本格的な修行をして僧侶の資格を取得され,悩める人たちの心の苦しみを聞いて相談に乗っておられます。阿波一国を巡拝されるときは,四国霊場17番井戸寺を参拝されると,その夜は「とみえ旅館」で宿泊され,二人でご詠歌三昧の時間を過ごすのが何よりの楽しみとなりました。彼女は西陣織の小物を織って商売をされていますが,私が唱えたご詠歌のテープを毎日かけて雪深い長野の自宅で機を織って暮らしておられます。
去年の5月に私が東京歩き遍路交流会に参加したときには,わざわざ長野から東京の会場へ駆けつけてくださり,再会しました。お元気なお姿に接し,手を取り合って喜び,「いつでも徳島へお越しくださいね!」と語らい,お別れしました。「Nさん,その節はありがとうございました。再会うれしかったです。おげんきでね!」

とみえ旅館へお越しの時は一人一人のお遍路さんなのに, 「四宮区民集会所」ではお遍路さん全員にお会いできたうれしさは思い出と重なり,「人生にはこんな楽しいことがあるのだなあ! 遍路宿をしていてほんとうによかった!」と思いました。 
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