有限会社 三九出版 - 美職人の窓辺で


















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☆《自由広場》 

             美職人の窓辺で 

            遠藤 明美(東京都八王子市) 

 「お電話ありがとうございます。○○美容室でございます……○○様ですね」自分の店の店名を名乗るようになり,早6年が経ちました。将来の夢は“美容師になる”と中学生の頃に決めていました。高校時代には,学校が終わり帰宅するとすぐさまスーツに着替えて百貨店の化粧品売り場に行き,店員さんにメイク技術を学びながら商品のノウハウなどを教えてもらうのが楽しみでした。あれから数十年が過ぎ,今はお客さまと会話を楽しみながらお仕事をしています。
☆ある日
 「この歳になると,何を着ていいのか~。あまりにも普段と違う服を着たりしたら,あの人どうしたのかしら?おかしくなったんじゃない?なんて言われてしまいそう。」
60代~70代くらいの方ですが,そんなふうに話していました。
 私の仕事の髪のことで言いますと,黒く染めていた方は,少し明るくされることを嫌う方もいらっしゃいます。長年見慣れた色や姿に安心感があるのでしょう。変わること,変えることに抵抗があるようです。しかし,皆さんの意志とは別に,時代は少しずつ変わっていきますよね。服装やヘアースタイルは,特に個人の好みが反映されます。その好みを貫くような強さならどんな時代でも個性としてその人のファッションですが,ただ無難だからという気持ちで変化を拒み続けると,やがては時代遅れになってしまうのではないでしょうか。 “遅れ”ということを考えてみても,流行に遅れるというのと時代遅れとでは全く違います。時代遅れにならないように美的要素で考えるなら,欲を言ってマイナス10歳でファッションも考えるようにしたいですね。     
 それで私はこのお客様にこう話しました。「もういいんじゃないですか?この年齢になるまでに色々なことに向き合い,経験してこうして今があるのだから,もう人からとやかく言われる歳でもないですし,言いたい人には言わせておけばいいのでは? 人生は長いようで短いとよくお聞きします。だからこのへんで,ご自身の開放,自分の殻を破ってもいいと思いますよ。お洋服も好きな色を楽しんで着られてもいいんじゃないですか?」と。自分自身に自ら枷(かせ)をつける必要はどこにもないのですから。
☆またある日
「どうしようか迷ってるんですぅ~。大分切ってもいいかな?って思ってるけど。何かスタイルブックありますか?」
 そうとう悩んでおられる様子。ページをめくり1冊を見終わり,2冊目,3冊目…こうなると本当に分からなくなるのがお客様。やりたいスタイルと自分との差を考えてしまうらしく,迷いに迷って私に「おまかせ!」とエンピツを転がすように,どうするのかの判断をゆだねられます。こうした場合に,お客様の頭にはないことかもしれませんが,お客様はまな板の鯉なわけです。ともなれば,私は板前! いやいや,鯉なら口もききませんが,お客様は人ですし気持ちもあります。当然,ご来店の理由は“キレイになる”ためのご来店なので,私は色々と考えて何通りかのスタイルを提案します。そして説明をしてカットに入りますが,このケースは私の場合本当にとても多いのです。なので,慣れてはいますが毎回身が引き締まります。出来上がりに,お客様の笑顔が見られた時は,言うまでもなくホッとする気持ちと何とも言えない幸せな気分に浸れます。だから,やりがいと楽しさが私には最高です。
☆そのまたある日
 「こんにちは。前回来たの,いつだったかしら?」だいぶ髪が長くなっていました。
長くなった分お会いしてないわけですが,聞くところによるとご家族のご事情で色々と大変だったようでした。そのお客様が言うのには,「ここだと友達でもなく,近所でもなく,何でも言えるからいいわねー」と。お客様方とお話をしていると,中には辛いことや苦しかったことを思い出されてか涙ぐまれる方も少なくありません。そんな時,お客様に対し,「嫌な事は髪と一緒に切り捨てて,シャンプーで洗い流してスッキリしましょう。」そう話します。

 私はこの仕事を通じて,お客様が少しでも心が軽く,明日という日が“きっといい日”と思って迎えることができるようにしたいと思っています。心が健康で豊かでいられることが美を作ります。外見ばかり良く見せるように繕っていても,それはすぐ崩れてしまうのです。強い身体と心も必要ですね。自分も弱い人間です。今までに何度も心折ることもありました。でもどういうわけかまた色々な人に救われて今日の私があります。今度は私がお客様の力に少しでもなればと思っています。 
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