有限会社 三九出版 - MiniミニJIBUNSHI        水害の想い出


















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MiniミニJIBUNSHI     水害の想い出
                 柳澤 惇(千葉県市川市)

小生が岩手県一関市の小学3,4年だった時(昭和19年入学だが病気で1年休学),つまり昭和22,23年に続けて台風襲来に見舞われた小さな一関市街は,大水害になり大被害が出ました。
昭和22年がカスリン台風,23年がアイオン台風です。当時,台風名はアメリカ女性名でした。今は2,3号と数字名です。いずれマリリン,エリザベス,デボラ等が襲来してくるのかと思いきや2,3号です。
冗談はさておき,被害から申しますとカスリンでは死者が130名,行方不明者は38名,アイオンでは死者393名,行方不明者316名でした。戦後間もなくの,すべてが貧しかった頃の小さな町の一関にとって,立ち直れるか否かの大被害でした。伊勢湾台風の被害は広域で,死者・行方不明者は5000人以上と聞いていますが,台風被害としてはそれに次ぐものかと思います。記憶は定かではありませんが,小生の家はカスリンの時は2階まで階段2段残して浸水,アイオンの時は2階床上3尺の浸水でした。今なら,テレビで全国隈なく放送され,救援物資は直ちに来るわ,自衛隊が助けに来てくれるわ,ボランティアが駆けつけてくれるわ,義援金が集まるわ,又,時には役立たずの“戦闘服”に身を固めた政府高官が視察に来てくれるわ,といったところでしょう。床上浸水や十数人が死んだくらいで大騒ぎになる今は,当時から思えば全く隔世の感もいいところです。ただ、当時でも救援物資は間違いなく届いていました。小生の記憶には残ってはいませんで,ずっと後になって確認したことですが,駐留の米軍機より小高い丘陵地に緊急援助物資が大量に投下され,それが配給されて当座の糊口を凌いだということでした。そうでなければ当座はとても暮らしていける状態ではなかったと思います。
多分アイオンの時だったと思いますが,家族4人(父親は市役所勤務で未帰宅)で卓袱台(ちゃぶだい)で夕食を摂っていたら尻の下が何かおかしいので畳を剥ぎ取ってみると,何と水が吹き上げたのです。それからが大変。まずは大事な物から2階に運び上げ,そのうち父親が帰宅して2階床上にお茶箱を置き,その上に物を運び上げました。幼い妹,弟をその上に載せたと記憶しています。
その時,小生が発揮した“火事場の馬鹿力”は凄いものだったようです。1階で腰まで浸水するまで物を運び上げたらしいのです。2階床上3尺で増水が止まってホッとしたのを覚えています。それから,我々子供は家の向かいにあった小学校の2階に避難しました。何で行ったのかは記憶ははっきりしませんが,筏だったように思います。後で両親が我が家の2階の屋根に避難しましたが,母親がずり落ちたのを父親が片腕で引き上げたとのことを、後から聞きました。それから水が引き,後片付けがある程度終わるまで3か月程,小学校の2階で暮らしました。
北上川の支流の磐井川に沿って一関の市街地があり,その両岸の被害が最も酷かったようでした。犠牲が大きくなったのは急な増水で一瞬に家屋ごと流され,1.5?程下流の東北本線の鉄橋にぶつかって死んだ人が大半だったらしく,そこを越えられた人は高木にひっかかって助かったり,遠くまで流されて助かった人もいたようでした。
ちょうど川筋に沿って花街があり,その地帯がそっくり流されたとのこと,歓楽の最中に地獄となったようでした。水が引いた後の状況は,臭いの何の,あらゆる汚物の泥が1尺くらい積もっていました。直後は近所の庭から子供の溺死体が出たり,悲惨そのものでした。溺死体は白く腹が異常に膨らんでいたと記憶しています。
また,同級生のKさんの家は小生の家と同じ状況だったと思いますし,地域が離れていたのでどの程度かはよくわかりませんが,Sさんの家も浸水していたことと思います。
その後の復興作業も大変で,当時の失業対策事業として行われたのですが,現代の建機などは皆無であり,人力でモッコを使って相当長期間かけて復旧作業が進められていたのを覚えています。これで市の財政が疲弊した状態が続いたようでした。今,地方の疲弊なんていわれていますが,当時の全ての貧しかった頃のことを思えば,皆,家も車もあり,ちゃんと生活し生きているではないか,と思いたくもなってきます。
小学校3,4年頃はそんな状況で落ち着きませんでした。それから三角ベース・布ボール・布グローブで野球が流行りだし,戦勝国アメリカから眩いばかりの文化が流入し,ラジオから流れるパティ・ペイジのテネシーワルツ,ローズマリー・クルーニイのカモンナマイハウスやドリス・デイのティーフオートゥーなどの甘いメロディーに聞き入ったものでしたが,やはり水害の記憶は今でも一番生々しく残っています。
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