有限会社 三九出版 - [還暦盛春駆ける夢]  『鶴の恩返し』


















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――[還暦盛春駆ける夢]――

        『鶴の恩返し』

          田村 昶三(大阪府堺市)

 私は堺市に在住して来年で半世紀になる。50年の恩を返したいと思っている。広島市から就職で上阪し,1961年堺市諏訪ノ森の独身寮。1965年結婚して百舌鳥八幡の文化アパートが新居。1969年5月から堺市浅香山の社宅住い。1973年3月に新天地を求めて泉北ニュータウンの堺市三原台の現在の家に移住し,落ち着いた。記念樹に桜を植えた。子供たちが入学したときには,桜の木の下で記念写真を撮った。その桜は数年前に切ってしまった。
 現在の家も,3人の子供たちは疾走して巣立って行った。夫婦二人の生活がこんなに長いとは予期していなかった。1993年,1996年,1999年と3年刻みで3人の子供たちは結婚して呉れた。3人の子供たちは,千葉県,大阪市,東京都とバラバラだが,国内に在住しているのには感謝している。堺市は3人には,ふるさとである。それぞれの思い出が詰まっている。折り目には,ちゃんと帰郷して呉れる。孫たちも「じいちゃん,ばあちゃん」と慕って呉れる。感謝している。
 いよいよ,御呼びがかかる時期になった。墓の心配である。これまで,堺市に住んだのだから,墓所は堺市内と患った。しかし,子供たちや孫たちはグローバルに生きていくだろうから,堺市の墓には無理がある。妻の田舎の墓を面倒みる運命になり,御先祖様に京都の大谷本廟に御移住を願った。永劫の住処は京都に決まっている。3人の子供たちは京都で学んだ。京都には母校がある。孫たちも帰郷した時には大谷本廟に連れていく。孫たちまでは,自然の形で伝承出来たような気がする。
 人生80年。その中で50年を過ごした堺市。10年間,堺市内の工場に勤務したことがある。地域間題を垣間見た期間だった。しかし,自分に納得できる社会貢献は出来てない。長男が小学生のときに,PTAの会長をしたことはある。1年で逃げ出した。会社勤務とは,あまりにも価値観が違いすぎた。企業の中では,社会貢献活動は無理と理解した。会社勤務の間,何か引っ掛かるものがあった。そのために,大阪大学で本間教授がボランティア講座を開いていたときに,毎週木曜日の午後聴講した。
 何かで恩返しをしたい気持ちがあったが,見つけることが出来ないまま定年になった。1995年にWindows95の登場で,パソコンが長足の進歩を遂げた。1998年に近隣の大学から非常勤講師の話が持ち込まれた。パソコンを教えた。休日の土曜日に2コマ受け持った。学生の輝く目に刺激された。2000年6月に会社生活を卒業した。火曜日に3コマを担当した。途中から木曜日に「情報と職業」の科目が加わった。就職冬の時代に,別の直近の大学からの「現代企業論」を引き受けた。
 大手鉄鋼メーカーの情報部門でコンピュータと死闘した教授の手引きがあり,半年間一緒に授業をした。ドラッカーと再会した。学生に就職時に役立つ「知識の伝授」が私の役割。その教授の導きで,「マネジメント」を読み直した。2007年3月までの4年間苦闘した。ドラッカーが,『非営利組織の経営』で説いていも「マネジメント」と。「知の巨人」は95歳で逝去したが,現役だった。その神様の再勉強によりマネジメントの体系化が進んだ。この「マネジメント」を活かしたいと思った。
 2006年4月。大阪府主催の「SA(シルバーアドバイザー)養成講座」の生徒募集のチラシを見つけた。家の近くのビッグ・アイ」で毎週火曜日半日の講義。非常勤講師の火曜日の講義を辞任していたので,安易に受講した。福祉ITというコース。「情報の知識」を活用したいと目論んだ。パソコンを使って福祉に貢献したいというコースだった。クラブ活動はパソコンクラブ。迂余曲折の後に,堺市への恩返しのつもりで,講座終了後は「堺SA連絡協議会」でお世話をしている。
 その「堺SA」の創立20周年行事を2010年2月16日に行った。平成22年度の方針として「南部講座復活」の蜂火を挙げた。私の受講した「SA養成講座」は,「ビッグ・アイ」で2004年〜2006年の3年間開講された。3年間で260名の修了者を出した。その講座を復活しようという狙いだ。現在はNPO法人大阪府高齢者大学校の中にある。恩返しになるかどうかは不明である。また,永年引っ掛かっていた問題解決にもならないかも知れない。社会貢献で堺市に恩返しできるだろうか。
 この思いが,火の玉になり,情熱となり燃え始めている。人生最後の大仕事だと理解している。改めて,システムとしての「堺市」を見つめ直した。政令都市堺市は逞しく成長している。半世紀在住の堺市への社会貢献のチャンス到来でもある。プロジェクトとして,取り組む。1年間は,楽しく,快適な日々になるだろう。四百四病の私としては,医師に1年間の「いのち」の保障をお願いした。一命を賭しても後悔しない1年であることを願っている。創造主の加護を祈るのみである。
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