有限会社 三九出版 - 還暦盛春駆ける夢     本を書くことの決意


















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還暦盛春駆ける夢       本を書くことの決意

                      成田 攻(東京都豊島区)

 やはり,私は本を一冊書かなければならないと思う。それは自家本で,頒布はせいぜい数十部に限られよう。それでも私には書かなければならない事情がある。
 平成18年1月25日,私は母と55年ぶりに再会した。6歳だった私は61歳に,36歳だった母は91歳になっていた。名古屋で別れた母は川口の介護マンションにいた。半世紀も慕い続けてきた母は,わが家から車でわずか30分の近くにいたのだ。
 昭和19年3月,私は満州の大連で生まれた。父は京都大学を卒業して満州に渡り,満州中央銀行に勤めていた。昭和12年の夏,父は休暇をとって東京に戻り,母と見合いし翌週に挙式し,連れ立って神戸から大連を経て赤峰へ赴いた。その後,撫順,新京,大連と転勤を重ねながら4人の子供をもうけ,昭和19年の秋に支店長の辞令を受け牡丹江に赴任した。父36歳,いよいよ人生の佳境を迎えるはずであった。
 しかし,牡丹江の空に暗雲は迫っていた。日本は太平洋から東南アジアまでいたずらに戦局を拡げ玉砕と敗退を重ね,この年の7月には東条内閣が総辞職した。満州に駐屯していた関東軍の過半があいついで南方や本土に駆り出され,4月にソ連が日ソ中立条約の破棄を宣言するや,満州はいっきょに不安に包まれる事態となった。そして6月,ついに父のもとに赤紙が届いた。手薄になった関東軍を補うために急遽18歳から48歳までの男子25万人が招集された,いわゆる「根こそぎ動員」であった。父は社宅前のバス停からあわただしくバスに乗り込み,母の前から去った。
 8月9日の未明,ソ連は157万の大軍をもって怒涛のように満州に侵攻した。母は11日には4人の子どもの手を引いて牡丹江から無蓋列車に乗り込み新京へ逃れ そこから日本へ最短距離で朝鮮半島縦断を試みるも,38度線の遮断により汽車は安東で立ち往生した。そこからどうやって新京へ戻ったのか? 8月15日の夜には,ソ連軍入城の噂におびえ,激しい稲妻と雷雨の中を夜通し歩いて市内から必死の逃避をはかる2000人の日本人集団の中にわが一家はいた。終戦ののち,母子5人は約1年間新京の銀行社宅に肩を寄せ合い息をひそめて篭居し,ようやく日本へ引き揚げてきたのは昭和21年の9月であった。母は名古屋にいた兄を頼りそこに落ち着いたが,ミシンの内職では一家を養えず,昭和25年の春,断腸の思いで末子の私(当時6歳)を手放すに至った。母のもとに父の戦死告知が届いたのは,それから10ヶ月後であった。
 55年ぶりに再会した私は川口の母のもとに通いつめたが,高齢の母から昔のことを聞き出すのは容易ではなかった。その代わり,押入れの中からビニール袋に入った手紙の束が見つかった。そこには当時の一家の困窮ぶり,父の死,私の養子縁組に関する情報が網羅されていた。母はこの日を予想し,自ら釈明するのではなく,他人の言葉(母に宛てた手紙)だけを残して全てを私の推理にゆだねようとしたのだろう。私はそれらを丹念に解析し,点と点を結んで線を引き,線と線を合わせて面を開き,様々な事情と母の苦悩の経緯を推理した。
 一方,私が母との再会に有頂天になっていた平成18年の秋半ば,もう一人の母(養母)はひっそりと息を引き取った。6歳でもらわれてきた私はなかなか養家になじめず,心を開こうとしない私に養母は厳しく接した。叩かれるたびに私は別れた母への思いを募らせ,いつも優しかった一番上の姉がいつか私を迎えにきてくれるものと信じ,心の中で現実逃避を続けた。教育熱心な養父母ではあったが,心の軋轢はさらにふくらみ,大学を卒業すると親の反対を押し切って結婚独立し,それがもとで養母から離縁された。こうして私は生涯に二度まで母から見放されることになった。
 いささか陰鬱な少年時代を過ごしたが,妻との結婚は私の人生局面を大きく変えた。家庭では一女一男に恵まれ,会社ではよき先輩,同僚,部下と多くの機会に恵まれて,ある時期は海外を飛び回り,ある時期は会社の経営を担い,いっときも飽きることなく多忙に過ごす内に,気がつけば定年を迎え孫を持つ身になっていた。母のことはやや記憶のかなたにかすみかけていたが,むかし私が夢想したように,あの姉は本当に私を探し続け,ついに母との再会を実現してくれたのだった。
 だから,私は母を看取った上で一冊の本を書かなければいけないと思っている。第一に,私が母とどれほど幸せな最後の時間をすごしたか,母は私に何を語ったのか,を姉に報告しなければいけない。第二に,これまで自分の生い立ちと家系を一度も語ったことのなかった妻や子供たちに今わかったことを書き残し,孫たちに血の誉れを伝承しなければならない。そして第三に,母との再会をわがことのように喜んでくれた親しい友人たちに,国を恨まず他人を妬まず自分の足元だけを見つめてひたすら愚直に生きた私の愛する母への追憶をしみじみと聞いてもらいたいのだ。
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