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本物語

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第30号 2010.7.15

若山健(けん)海(かい)と予防接種

伊藤 卓雄

予防接種といえば,昨年来,新型インフルエンザの流行に,世界中がおびえ,ワクチンの確保をはじめ,その予防対策に翻弄されたことは記憶に新しい。
種痘は,幕末当時も流行病であった「天然痘」の予防接種で,なかでも,1796年に英国のジェンナーが開発した「牛痘ワクチン」を使った種痘法(以下,「牛痘法」)は,副作用も少ないため,かなりのスピードで世界各地に普及した。(因みに,「ワクチン」は,英語で(vaccine)。ラテン語の「牝牛」(vacca)に由来する。)
ところが,当時のわが国は厳しい鎖国政策の下にあり,牛痘法についての情報や文献はかなり早くから伝わっていたものの,肝腎のワクチンの入手は至難で,その著効を知る医師たちの渇望久しいものだった。
健海が遺した「種痘人名録」によると,彼は延岡藩の元藩医であった福島退庵(邦成)と協力して,嘉永2(1849)年3月,日向の地で初めての種痘を行ったと読める。
わが国の種痘は,同年の7月(又は6月),長崎において,佐賀藩の藩医楢林宗建によって初めて成功したというのが通史だが,それよりも3月ほど早く健海が種痘に成功したということが事実なら,通史を書き換えることになる。そのような問題提起をしたのは,健海の孫である牧水の高弟大悟法(だいごぼう)利雄だったが,その発表(昭和19年)当時はともかく,その後はあまり関心が持たれなくなった。
数年前のこと,私は,友人達とのお国自慢話から飛び出したこの話題に興味をそそられ,以来,健海が記した僅か3行の文章(「種痘Koepok傳嘉永酉初春上旬到于崎陽蘭人monnickei君為師得是術而歸于宮崎施之連名」)と種痘人名録(240余人分)及び後年の彼の医師免許申請の際の履歴書草稿を手掛かりに,あれこれの資料探索に努めてきた。その結果,当時のワクチンの入手事情や周辺状況を勘案すれば,彼の種痘実施の時期は,1年遅い嘉永3(1850)年3月であろうという推論に達した。
そして,農家出身ながら努力を重ねた彼の勉学の過程を推理し,上記の推論に至った経過などを取り纏めた小論(「若山健海の『種痘人名録』を読み解くために」)が,「沼津市若山牧水記念館館報(第38号・平成19年3月15日号)」及び同館のホームページの「館報」に掲載されるという僥倖を得た。(参考 http://www.dataeast.jp/users/bokusui/9kanpou38-08.htm)
私は,自分の推理が的外れに終らなかったことに安堵するとともに,新資料の解析にも取り組み,当時の医師たちが,幼い子供達の命と多くの人々の人生を救おうとして,オランダ医学の修得と普及にかけた情熱と努力を,関連類書を含めて読み解きながら,改めて感動を深めている。そして,先人達の,「保嬰」(幼い者の命を守ること)の精神,情熱 努力は是非とも語り継ぎたいと思う。
新資料には,ほとんど漢字ばかりの前文(牛痘法に関する記述:34行500字ほど)と種痘人名録(146人分)が記載されており,現在,その内容を追究中だが,この作業の過程で,幕末における多くの人々の,蘭学と新医術の習得に注いだ情熱と努力を改めて強く感じるとともに,様々の記録が残されてきたことを有り難く思う。
残念ながら,漢文や漢字片仮名交じりの文語体,毛筆体でくずし字ありといった難読難解の資料を前に嘆息するばかりだが,もっぱら文献探索中心の作業に留まる者にとって,国会図書館をはじめ各種図書館やインターネットを通じて情報収集が容易になってきていることも,今の時代の見逃せない幸運である。
文化の伝承という視点から,書き残すことの大事さを痛感するとともに当今の「文字」・出版・情報に関する諸事情に思いを馳せることもたびたびで,末筆ながら,三九出版様の根気強いご活動に感服するとともに,貴重な紙面のご提供に心より感謝申し上げる次第です。 
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