本物語
第30号 2010.7.15
百歳の母から学んでいる感謝の心
鈴木 壮夫
「福音の園・川越」に縁があって入所させていただいたのは2004年の秋でした。95歳の誕生会から今年が6回目,それが百歳のお祝いでした。母は私に話してくれました。「時がどんどん過ぎ去り,百になってしまった。眼が見えない。いつも真っ暗。でも一生懸命皆さんの話を聞いていると素晴らしい集まりに参加させていただいている。そして私を生かしてくれている。ここは大事な場所です」と。話しながら,嬉しいのでしょう,顔が紅潮していました。4月8日,私のそば屋の定休日に合わせて百歳の誕生会を開催していただきました。牧師さん,お医者さん,当日非番のスタッフさん達,そして18名の入所者の皆さん,聖書を読み,賛美歌を唄い,心のこもった料理をいただきました。皆さんが母の側に来て,「チエさん,よかったね!」と心から祝い,励ましてくださいました。
敗戦後,子供だった私達でも親の世代と復興を誓い,お互いに助け合い,何かを信じて努力を続けて,一つの成果を築き上げました。そのことを彷彿させられるような強い協力と連帯を久しぶりに体験し,私は大きな感動につつまれました。
母は司会者の進行に従い「本日はありがとうございます」とお礼の挨拶を述べ,誕生会のフィナーレには可愛く大きな声で“浦島太郎”を一番から五番まで間違いなく唄いました。母が普段,くつろいでいる時,よく唄っているのを聞いたスタッフさんが,「チエさん,誕生会の時,唄って!」とすすめてくれたそうですが,眼が見えないのによく記憶しているもんだと,私は隣でビックリして聞いて,一緒に唄いました。
「心の柱」も母を支えてくれています。京都・同志社高女時代に学んだ聖書と賛美歌を「福音の園」での生活が呼び戻してくれたのです。京都時代の青春が80年後に母の心に再現して,イキイキとした生活を支えてくれていると私は納得しております。キリスト教徒でなくても,その精神に生かされている。その母を父と同じお寺に埋葬してもいいものか?数年前,私は和尚さんに悩みを打ち明けたこともありました。
誕生会の翌週の店の定休日,15日に高校同期会の仕事で仙台に行きました。朝,8時仙台駅に到着。歩いて先ず父の墓と向き合い,花を手向け,話しかけました。墓石には「昭和四十四年八月 チエ建之」と刻まれた文字がこの日はとても印象的でした。この日は,山門脇にある坂村真民さんの『念ずれば花開く』が彫られた石碑に,合掌しました。この言葉は母がいつも口にして,私を励ましてくれたものです。和尚さんにもお会いしました。母の百歳誕生会のこと,週一回の面会時の様子等々をお話しているうちに,私はここ数年間の母の言葉を思い出しておりました。それは『ありがとう』という感謝の心です。母は、『ありがとう』という感謝の心を真心で話しているのです。母は同世代の女性と比べて“独立した人間”をより高く目指していました。「婦人之友」のミセス羽仁を尊敬して,友の会活動にも熱心でした。今でも,友の会の方が母を訪問されると嬉しく,語らい,唄うそうです。でも,性格はとても勝ち気です。私が高校時代,父の管理不足が原因して当時としては多額の負債を負う羽目に陥ったとき,眠れないで正座している父に向かって母は「終わったことはしょうがない。信用して任せた私達がバカだった。立ち直りましょう!」とバッハをかけ,激励していたことが忘れられない。子供の教育でもそうでした。勉強でも何でも「あの子には負けるな!」と。そして有言実行で,身体が丈夫なはうではありませんでしたが,よく働いてくれました。心の中では「ウチのオフクロは一番」と思っていました。
その母の口から他人との比較が出なくなった時,私は母は変わったと思いました。もしかしたら,母は精神の世界で“大往生”を遂げたのかもしれません。来年古希を迎える愚息が心配で心配でならない様子を見せながらも『ありがとう』と言う母です。私にとって「感謝の心」を言葉にするのは簡単ではありませんが,我が心を見つめ直して,『ありがとう』と話す母から何かを学んでいこうと思っています。
敗戦後,子供だった私達でも親の世代と復興を誓い,お互いに助け合い,何かを信じて努力を続けて,一つの成果を築き上げました。そのことを彷彿させられるような強い協力と連帯を久しぶりに体験し,私は大きな感動につつまれました。
母は司会者の進行に従い「本日はありがとうございます」とお礼の挨拶を述べ,誕生会のフィナーレには可愛く大きな声で“浦島太郎”を一番から五番まで間違いなく唄いました。母が普段,くつろいでいる時,よく唄っているのを聞いたスタッフさんが,「チエさん,誕生会の時,唄って!」とすすめてくれたそうですが,眼が見えないのによく記憶しているもんだと,私は隣でビックリして聞いて,一緒に唄いました。
「心の柱」も母を支えてくれています。京都・同志社高女時代に学んだ聖書と賛美歌を「福音の園」での生活が呼び戻してくれたのです。京都時代の青春が80年後に母の心に再現して,イキイキとした生活を支えてくれていると私は納得しております。キリスト教徒でなくても,その精神に生かされている。その母を父と同じお寺に埋葬してもいいものか?数年前,私は和尚さんに悩みを打ち明けたこともありました。
誕生会の翌週の店の定休日,15日に高校同期会の仕事で仙台に行きました。朝,8時仙台駅に到着。歩いて先ず父の墓と向き合い,花を手向け,話しかけました。墓石には「昭和四十四年八月 チエ建之」と刻まれた文字がこの日はとても印象的でした。この日は,山門脇にある坂村真民さんの『念ずれば花開く』が彫られた石碑に,合掌しました。この言葉は母がいつも口にして,私を励ましてくれたものです。和尚さんにもお会いしました。母の百歳誕生会のこと,週一回の面会時の様子等々をお話しているうちに,私はここ数年間の母の言葉を思い出しておりました。それは『ありがとう』という感謝の心です。母は、『ありがとう』という感謝の心を真心で話しているのです。母は同世代の女性と比べて“独立した人間”をより高く目指していました。「婦人之友」のミセス羽仁を尊敬して,友の会活動にも熱心でした。今でも,友の会の方が母を訪問されると嬉しく,語らい,唄うそうです。でも,性格はとても勝ち気です。私が高校時代,父の管理不足が原因して当時としては多額の負債を負う羽目に陥ったとき,眠れないで正座している父に向かって母は「終わったことはしょうがない。信用して任せた私達がバカだった。立ち直りましょう!」とバッハをかけ,激励していたことが忘れられない。子供の教育でもそうでした。勉強でも何でも「あの子には負けるな!」と。そして有言実行で,身体が丈夫なはうではありませんでしたが,よく働いてくれました。心の中では「ウチのオフクロは一番」と思っていました。
その母の口から他人との比較が出なくなった時,私は母は変わったと思いました。もしかしたら,母は精神の世界で“大往生”を遂げたのかもしれません。来年古希を迎える愚息が心配で心配でならない様子を見せながらも『ありがとう』と言う母です。私にとって「感謝の心」を言葉にするのは簡単ではありませんが,我が心を見つめ直して,『ありがとう』と話す母から何かを学んでいこうと思っています。