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本物語

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第34号 2011.07.05

薩摩島津家と永吉南郷会の活動

本田 哲郎

 その時家久は佐土原藩主であったが,病のため急逝した。その嫡男豊久は伯父の島津義弘に従って関ケ原の戦いに参加したが,義弘は豊臣家に対する恩義もあり,また以前から徳川家康の眼力と実力を予見していたことで,関ケ原では合戦の現場に居たものの東西合戦そのものには一切手出しせずにいた。
 関ケ原合戦は一日にして圧倒的に東軍(徳川軍)が勝利した。 1200人の島津義久を大将とする薩摩軍は徳川勢の井伊,松平,本多などの迫撃を受けたが,当時薩摩17代当主でもあった義弘をなんとしても無事で鹿児島に帰還させる必要(当主が後継者も決められず他界した時はお家取り潰しの運命 ― 赤穂(藩)浪士と同じ)があり,副将の義弘の甥子の豊久,阿多長寿院盛厚(義弘の家老)などが「敵中突破」を敢行して,死を恐れず戦い,義弘を故郷に逃げ帰らせたのである。
 当時,島津豊久は父家久から佐土原藩主を引き継いでいたが,豊久が死亡したことにより,佐土原藩は徳川勢によってお家取り潰しとなった。豊久の家臣団の落ち着き先として,佐土原を後に永吉を中心に流れてきたのである。
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