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本物語

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第38号 2012.07.30

先輩の自分史から学ぶ

手嶋 英之

 私は今年3月に自分史を書く機会を得た。これは自発的にと言うものではなく私の街,豊田市が運営する高年大学(60歳超過者対象の学習・交流制度)のカリキュラムのひとつであったからです。
 同科に入学した35人は自分の育った環境をそれぞれ書き上げた。私は「高度成長期とともに」と題して不満に思うことはあるけれど今日までまずまず満足できる人生を送ってきた。これから先もこの調子で活き活き人生を送ろうとまとめた。これでひとまず達成感を感じ,年輩級友の自分史に目をとおすと「先輩たちの強さの原因をみつけた」それと比べ「なんと自分は甘い生き方をしてきたことか」という思いに変わった。私の人生のほとんどを占める会社生活の中でお世話になった社内外の先輩諸氏は僅かな年齢差でこれほど戦争,戦後の貧困に身近な苦労経験者だったのかと当たり前のことだが新発見のように感じた。

 就職当時最も身近な上司・係長とほぼ同じ10歳ほど年上の級友の自分史には,次兄が旧制中学を繰り上げ卒業し予科練に。神風特攻隊志願者を送り出すにあたり先生はお国の為に生きて帰れないが泣いてはいかん。万歳で送ろうと言われた。それでも先生も生徒もみんな泣いて送った。縁故疎開。奉安殿に最敬礼。戦闘機の機銃掃射に逃げ惑う。恐ろしい光景だった。担任の先生に召集令状。熱田から名古屋港方面は焼け野原だった。ラジオで敗戦を知る。運動場はさつま芋畑に変わったとある。
 4,5歳ほど年上の級友では空襲警報と爆撃機B29の編隊,焼夷弾,防空壕に逃げた。ほとんどの家は焼けた。父フィリピンで戦死,父の遺骨箱が届いたが中は数個の石だったなど。
 3歳ほど年上になると,これらの話題は母の話で知っているに変わり,学校では二宮金次郎に挨拶,給食始まる,バスが田舎まで来るようになった,そして家にTV,伊勢湾台風,東京オリンピック,新幹線,東名高速道路開通などとなり戦争と戦後の記憶はほとんどない。ただこの年代までの共通点には両親は夜明け前から夜暗くなるまでよく働いた,そして子供たちの家事手伝いは当たり前だったということです。私もこの年代に近い。「後ろを見るな,前を見ろ」と言われるままに頑張ってきた。仕事は面白かった,賃金の上昇は当たり前として実に贅沢かつ生意気な生き方をしてきた。しかし幾つになっても大人になりきれない自分を常に感じ続けていたことも事実であった。未だにそうだがその原因のひとつを先輩たちの自分史から見つけたように思う。
 参考までに4,5歳年下になると子供たちには家事より勉強という時代になり家事手伝いはなく塾やお稽古に通ったとなる。

 甘えの構造の中で生きてきた私は「高齢者」と呼ばれる年齢になりました。高福祉低負担を期待し,バス,電車に乗れば優先席を譲ってもらえる権利が有るとか,自分でできるのに資格があるからサービスを要求するという年寄りになってしまったように思う。だから元気な今こそ今後の人生のあり様を考えるチャンスだと思う。戦(震災)後貧しい(厳しい)生活と戦いながらも幸福を実感した(実感されるだろう)先輩(被災者の方)たちから学ばせていただいた(いただくことになる)。
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