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本物語

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第42号 2013.8.31

防空壕,阿波踊りそして桃の節句

田中 富榮

 この度「ふるさとを語る」の原稿を書くに当たってわがふるさとを振り返ってみると,18歳の年に家を出てもう59年の歳月が流れている。私にとってのふるさとは今も太平洋を渡って吹いてくる潮風の香りが私のふるさとである。
 しかし私が生まれた年代は日本が戦争に向けて突っ走る時代だったので,私の町は軍港に指定され終戦まで300人に及ぶ兵隊が駐留し,小勝島は特攻隊の基地があったと最近になって私はそのことを知った。そういえば戦時中,山の防空壕へ逃げていたとき海の向こうの島に焼夷弾が花火のように落ちていたのが記憶にあるので,敵は特攻基地を察知していたのかもしれない。山の上には監視所があって毎日兵隊が見張りに山へ登っていた。
 徳島といえば「阿波踊り」。400年続いている阿波踊りも戦時中の7年間は中断していた。徳島市内では終戦の翌年から阿波踊りが開始されていたが,私の町では昭和23年の夏のお盆から始まり,中学1年生だった私はクラスの友達10名ぐらいと一緒に担任の先生を先頭にして,まだ外灯もない暗い町を踊っていた。母が自分のゆかたを私用に縫いなおしてくれたのを着て踊ったのを今でも覚えている。昭和17年に小学校へ入学してからB29の空襲におびえ,防空頭巾をかぶり学校の裏山へ逃げ,わが家では灯火管制のため裸電球の光が外へ漏れないよう電球に布をかぶせ,夜は暗い生活を強いられて暮らしてきた身にとって,大声をあげて町中を踊ってゆける自由さが子供心にも何ともいえない喜びであり,うれしくて浮き浮きした。先生も生徒も一つになって阿波踊りを満喫したように思う。それが私の阿波踊りの始まりであり,以後何十年もの間踊り続けて阿波踊りを楽しんだ。
 子供のころの楽しい思い出の一つに桃の節句のご馳走がある。戦後の食糧不足は底をつき,水のようなお粥やナンバ粉の蒸しパンやさつまいもが常食だったが,お節句の一日だけはご馳走が食べられた。 どこの家でも三段重ねの遊山箱にご馳走を入れて,子供たちだけで山や海へ遊山に行く風習があった。 遊山箱の下段には巻きずしを入れ,中段には卵焼きや煮しめを,上段には羊かんを入れる。15センチくらいの小さい箱は赤,黄,緑色の漆塗りであり,重ねた箱を入れる外箱は四方を丸くくりぬいてあって三段重ねの色が見えるようになっている。外箱には女の子らしい花模様の絵が描かれていて金具の把手(とって)が付いている。私も母が作ってくれたご馳走を入れた遊山箱を提げて近所の友達と裏山へ出かけていった。山ではゴザを敷いて座り,遊山箱を開けるのがとっても楽しく,友達同士自分の家のご馳走を比べて交換ごっこをして食べた。小さい箱だからすぐ食べてしまう。空っぽになったら急いで走って帰り箱にまたご馳走を詰めてもらい山へ駆けあがっていったのも懐かしい。年に一度の遊山のご馳走は食糧難時代にあって,お腹いっぱいおいしいものが食べられるのは,とってもうれしかった。裏を返せば,ふるさとをひと言で表現するなら昭和の激動期を飢餓状態に耐え抜いた日々である,と言ってもよいのかもしれない。
 親がある間はよくわが家へ帰ったが,親のいないふるさとは一層さみしさがつのって自然と足が遠のいてゆくのは如何ともしがたい。しかしたまに帰って町を歩くといろいろな思い出がよみがえり,「ふるさとはいいなあ!」と温かい思いがする。この気持ちは生まれ育った,たった一つの私の大切な土地だからであろう。



 
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