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本物語

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第45号 2014.5.25

〈花物語〉桃 の 花   

小櫃 蒼平

 「野に出れば人みなやさし桃の花」 ― たしか太宰治の小説のどこかに,ひとに「好きな花は」と聞かれたおとこが,恥ずかしそうに「桃の花」と答えるという場面があったような気がする。記憶違いかもしれないが,問題は「桃の花」。
 わたしのアルバムに,赤い着物を着て手に桃の花を持ち,雛壇の前に座っている幼いときの写真がある。信州の往還,その季節に山梨の勝沼を通ると,中央自動車道の左右の段丘は一面桃の花で埋めつくされるのが見える。その瞬間,ああ春がそこにある,とおもうと同時に,わたしはひそかに羞恥でからだを熱くする。小学校入学直前まで〈女の子〉として育てられた記憶が甦るのだ。
 それは若き日の叔母たちの困った趣味ではあったが,わたしもまた嬉嬉としてそれを受け入れていた。美しい〈女の子〉 ― わたしはそれをすこしも疑わなかった。 それどころか,誇ってもいた。「あたい、あたい」と自分をよぶのが口癖で,小学校に入ってからいじめの種になった。
 男の中に棲む女 ― その魔物への愛着は,自分の肋骨を頒ち与えたアダムの記憶から逃れられないからだ(小さい頃,叔母たちの白粉や口紅を手にした記憶! 端午の節句より上巳の節句に心躍らせた記憶!)。
 私の記憶の中の甘美と羞恥の結晶! それが桃の花。名残りの着物の端切れが匂い袋となって,いまも私の懐中にある。

 ※「野に出れば……」(高野素十『山本健吉 基本季語五〇〇選』講談社学術文庫)
               

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