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本物語

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第47号 2014.10.30

川越からふるさと“仙台”を想う

鈴木 壮夫

 大学進学のため、仙台を離れ上京したのは1960年。入学直後から安保反対闘争のデモに参加したことが昨日のように思い出されるが、もう半世紀以上も経ってしまいました。そんな過去の土地でもあるにもかかわらず、しかも73歳という高齢者になっても仙台は心の奥底から懐かしい。人間として育てていただいた仙台は、私の価値観の原点でもあります。
 仙台駅から西へ約1km。西公園という素晴らしい場所があります。眼下を広瀬川が流れ、その先に母校仙台二高の校舎、そして眼下を転じると伊達政宗の居城があった青葉山、心が癒され、自分の原点に戻ることができる、私が最も愛する場所です。
 「白河以北、十把一絡げ」という言葉をご存知でしょうか。福島県の白河より北の東北地方はどこもあまり価値のない地方だと中央から卑下されていたのです。ですから仙台で青春を過ごした若者の価値観は「反中央・反権力」でした。私が卒業した仙台二高の仲間はもちろん今でもその価値観を少なからず持つ、かけがえのない友人達です。ふるさと仙台、そして首都圏在住の同窓の皆合は今でもほぼ毎月1回開催され、在高当時の前向きに闘う姿勢、不屈の精神、思いやり、そして――私の独り善がりかもしれませんが、青春時代の気高い人間性を維持しようと、口には出さないが心深く注意して、エールを交換し合うのです。多くの同窓生の楽しく、心の支えにもなっている会合です。そんな会合の都度、避けては通れない一つの覚悟が皆の中に存在しておりました。それは、死ぬまでに大きな地震が必ず起きるだろうということでした。
 巨大地震、巨大津波がふるさとを直撃した東日本大震災から3年半が過ぎ去りました。仲間の覚悟をはるかに超えた未曽有の大震災がもたらされました。被災地の友人達から被災の様子で埋められた写真集とか被害記録本が送られてきます。南三陸町の写真集に次の言葉が掲載されてました。「悪い夢なら覚めてほしい。みんながそう思ったはずだ。街並みはどこへ行った。緑はどこへ行った。人々はどこへ行った。生まれて初めて自然を恨んだ。」
 私は手打ちそばやを経営しております。ふるさと被災地の人たちを助けたい、お役に立ちたい、励ましたいと思っても物心両面での余裕が乏しく、現地に向かう時間を作ることができないのです。3年半経ったのに、被災地に行けたのは数か所に過ぎません。その中で石巻が強く印象に残っています。。数時間の滞在でしたが、工場・倉庫を流された高校の同期生が案内してくれました。それまで毎日毎日、新聞やテレビで被災状況は目にしていましたが、ガレキの山に遭遇した時、言葉は出ませんでした。思わず車中で手を合わせ黙祷しました。オレだったらどうするだろうか、立ち直れるだろうか、支え合う仲間は何人いるだろうか。とても苦しくなりました。案内してくれた同期生は次のように語ってくれました。「地元の復興への熱意は強く、高く、東北人特有の粘り強い忍耐力をもって再起を目指している。社員とともにガレキと闘い、老骨に鞭を打って、会社再建に努力をしている。」と。確かに3年半経った今でも多くのものを失って苦しんでいる人達も多く、変わり果てた光景も依然として広がったままのようです。加えて、人災とも言うべき原発災害は収束の道のりがはるかに遠く、放射能汚染は深刻で、いわれのない風評を撒き散らしています。でも、途方もない混乱にも被災地の方々は全力で立ち向かっているのです。希望を捨てず、屈することもなく、懸命の歩みを続けているのです。
 2年前、仙台在住の高校同期生が中心となって『「我ら歴史の生き証人」その時私は・・・・』と題する記録集を出版しました。多くの専門家は地震の規模と津波の被災範囲から見て、この度の「東日本大震災」は貞観地震―西暦869年7月13日―の再来」と見ています。千年に一度と言われる所以です。同期生の誰ともなく「俺達は不幸せにも千年に一度の大地震に出っくわしたんだよな。いわば歴史の生き証人だっちゃ。何か残してぇな」というのがこの記録集編纂のきっかけと、仙台の仲間から連絡が届きました。約70名が寄稿し、それぞれの地域における生々しい状況や激しい被災状況が綴られています。遠隔地に住まいして被災した仲間を思いやり、「どのように慰め励ましたらよいかわからず、言葉もない・・・・寄稿できない・・・・」と連絡した同期生も複数いたそうです。「人間一生の中で縁を持てる人はわずかな人数、こんな時だからこそ〈絆〉を大切にしなければならないと、今更ながら思い出を深めている」と、記録集編纂の世話人が書いています。
 その〈絆〉という言葉が最近はあまり聞かなくなったように思いますが、あの大災害の悲惨さを風化させてはいけないと、強く思うこの頃です。
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