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本物語

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第53号 2016.1.30

M 君 の 死

持山 保信

東日本大震災発生の第一報は仕事中に車のラジオで知った。
ここ徳島でも揺れは感じたらしいのだが,如何せん走行中の車中では何も気づかず,ただ地震速報が直後よりかなりの緊張感を持って報道され,震度は7強,津波の高さは6~7メートルとのことだった。
震源が仙台沖と聞くに及んで我が耳を疑ったものの,身の毛が逆立つのと同時に何かの波動を確かに感じる私でもあった。テレビには津波が石巻市を飲み込みながら猛烈な速度で内陸部に押し寄せる映像が早くから流れたが,その凄まじさに正直,「もうダメだぞ,M君が死ぬ」と予感する波動であった。
このような時に電話は絶対繋がらないことは知っていたが,念のため掛けた携帯はただ無機質的な音を「ツーツーツー」と繰り返すだけだった。
私は北関東の高崎にて4年間,大学に学んだ。昭和42年から46年までだったから,もう45年も前の話となる。 ともあれ,この4年間に私の青春の大部分の思い出は凝縮されていると言っても過言ではなく,とりわけ学生寮にいた3年間は特別思い出深い時期でもある。在学中の友人は全てこの学生寮で知り合った先輩・後輩なのだ。その中の一人がM君である。
石巻のM君は色白の男前である。剣道部で活躍して主将にまで昇進した立派な人物だったことが今更ながら口惜しい。隣の部屋の同級生ということで,学生寮時代の苦しい一年生時代の苦労を分け合った仲でもあった。
その時,M君が言った。「これで見られないと思っていたテレビの連続番組が見られる」 直後に私とM君の喧嘩が始まることになる。すなわち私が「なんだコノヤロウ,人のお世話になるのを感謝するのが一番で,番組の心配をするなど不謹慎」と説教したことにM君は「何もそんなに叱らなくたって良いじゃないか。感謝は当然している」といった内容だったが,今から考えるとトーチカで何十時間も足止めを喰って皆がストレスを持っていたことが全ての原因ではなかったろうか。
そのM君が亡くなった。 卒業以来の音信もなく半ば忘れかかっていた思い出が突如として私の脳裏に蘇ったのはどうしてだろうか。また震災当日に確かに感じた不吉な予感は何だったのだろうか。700キロも800キロも離れた場所に居て,彼が発信したサインが果たして本当に伝わるものなのだろうか。――しかし私は思いたい,それは「東日本大震災を忘れてはならない」というM君の強いメッセージであると。
今後の復興を願い,その記憶を風化させない努力を続けることは日本人として当然の責務であるが,今回の大震災により私が経験したような事象が万単位で同時に起きたことについては,その一つ一つにドラマがある。私もその一つの記録の語り部として小さな責任を果たして行きたいのだが,今はM君のご冥福をお祈りする他はない
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