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本物語

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第59号 2017.12.25

大震災が生んだ絆

坂本 雅良

 あの日は,大阪もどんより曇った日だった。
 大阪市内のとある病院に入院していた伯母の見舞に行った日だった。母親の姉の伯母はちょうど百歳だったが,意識はしっかりしていた。ただ耳が若干遠くなっていたので,私がベッドサイドにかがみこんで伯母の話を聞いていた時のこと,体が大きく揺れて目眩が起きたような状態になった。姿勢を起こして周囲を見渡すと,窓のブラインドや照明のプルスイッチのヒモ等が大きく動いているのを見て地震であることが分かった。 しかし伯母はベッドに伏せているためか, あまり揺れを感じない様子だったが,窓際のブラインドなどを見て事の次第を理解できたようだった。実は,伯母は阪神淡路大震災で被災しており,伯父伯母は無事だったが家屋は半壊でそこに住み続けられない経験をしているので,私の家のことを心配してくれたものと思う。すぐ家に帰るようにと私に言った。
 病院の建物は十階建てぐらいだと思うが,伯母の病室は六階だった。とりあえず廊下に出てみると,ナースカウンターの方では騒然とした様子だったが,さしたる被害はない様子だったので,また伯母のところに戻ってその様子を話した。
 しばらく後,伯母に再来を告げて病室を辞し,自宅に電話をしたところ,揺れはなかったという。但し,テレビではすでに津波の状況を映し,大変な被害が東北地方に出ているという。帰宅してからテレビを見ていると,その後幾度となく恐ろしい光景が放映され続けた。ただ,その時にはまだ原発事故は知られてなかったように思う。
以上が私の脳裏に残る“三月十一日”だが,日を追うにつれ現地の模様が次々と分かってきた。それを知るたびに何かをしなければという思いはしたものの,何がしかの募金と彼の北の産物を買い求めることぐらいしかできない身のため,歯痒い思いであった。それだけに,日本国内は言うに及ばず,アメリカ等多くの外国からも巨額の義援金が贈られ――因みにアメリカから約29億9,8000万円,台湾から約29億2,800万円,それからタイ,オマーン,中国,アルジェリア,イギリス,ベトナム,香港,フランス,スイス他からもそれぞれ億を超える義援金が贈られたという――,ボランティアの人たちが駆けつけてもくれたし,また励ましのメッセージも多く届いて被災地人々に力を与えてくれたとの報道を新聞で読み,テレビで見て,頭の下がる思いをしたものであった。
 今,私は病院ボランティアをしているが,この病院からも相当数の医師,看護師,職員が救援に派遣されたと聞いている。こうした義援金,ボランティアの善意が「絆」となってその後の復興の大きな力となったことは述べるまでもない。
 私は,被災の甚大さとともに,こうした国内外の人々の善意を忘れることができないし,忘れてはならないと思っている、
 幸い私自身は直接的には被災しなかったが,阪神・淡路大震災を経験した者として天災の恐ろしさを忘れることはできない。そして同大震災が起きた1995年を「ボランティア元年」と呼ぶようになったきっかけがその折のボランティア活動(これが東日本大震災の救済・復興のボランティア活動にも繋がっているものと思っている)であることも記憶に残り続けるものと思っている。
 熊本大震災,それ以外にも方々で起きている水害など,過酷な試練が連続して発生しているが,東日本,阪神・淡路の二つの大震災から学んだ“行政に頼るだけではなく,それぞれの知恵も出し合っていかなければ”ということを痛切に感じているところである。そして,できれば半世紀ほど前に訪れた東北の地へ行ってみようと思っているところでもある。 
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