本物語
第71号 2021.11.20
宇治の文学碑を歩く( その4)
岡本 崇
2019年5月6日,小西亘先生の著書『宇治の文学碑を歩く』P.145,154を読みながら歩いた。9時半に家を出て,京阪宇治駅で坂東史朗氏と11時に合流。タクシーで三室戸寺へ。受付を入るとすぐ右手に歌碑があり,向こうに満開のツツジが見えた。
● あぢさゐの 色をあつめて 虚空とす 省ニ
西国観音霊場十番札所三室戸寺は6月中旬の「あじさい」の花で有名であるが,ツツジが満開であると聞いて急遽訪問した。岡井省二(1925~2001)は三重県出身の医師で俳人。虚空とは,大空・空間・無限などの意味があるとか。
●山吹や 宇治の焙炉の にほふ時 芭蕉
三室戸寺の階段を上がった本堂前の蓮池の端に歌碑があった。芭蕉が,宇治川の岸辺に咲く山吹を思い起こして詠んだ句であろう。焙炉は製茶用の大きな乾燥炉のこと。今回は,令和になって初めての,西国観音霊場札所訪問でもある。私は此処で33霊場中の23霊場を回ったことになる。歌碑の後ろの本堂で納経帖に御朱印を頂く。
▲ここは、紫式部の筆になる,「源氏物語」の宇治十帖にも描かれている所で,「浮舟の石碑」がある。宇治は貴族の山荘が営まれた勝境。「源氏物語」五十四帖の最後の十帖は,宇治市を舞台にしており,世に「宇治十帖」として知られる。
▲新羅大明神:三室戸寺は,平安時代に天台宗の寺院として近江の園城寺(三井寺)の別院として創建された。従って,園城寺の新羅善神堂を勧請して,入り口に祀られている。当地には智証大師円珍が中興する以前に大物主命を祀る三室(御室・御諸・三諸)神社が創建されていて,当地の人々の信仰の対象になっていたと考えられる。これは,出雲族や新羅国と関係があったのであろう。五條市の光明寺が,奈良国立博物館に寄託展示している8世紀統一新羅時代の金銅仏を思い出した。
▲三室戸寺は,ほとんどが平戸つつじ(長崎県平戸市)だが,その数20,000株。関西の寺社ではナンバーワン。霧島つつじ,久留米つつじ等も咲き誇る今が見ものだった。
私が4歳頃から高校卒業まで住んでいた西吉野町の実家にも赤い平戸つつじがあって10数年間手入れをしたり,楽しんできたので懐かしく手で触れ,写真を撮った。
花に囲まれた寺内の茶店で,三重の塔越しに見える明星山を眺め乍ら昼食。再びタクシー(1,100円位)に乗って専修院へ向かう。京阪宇治駅からは500円位だった。
■専修院:宇治市宇治弐番81 JR宇治駅に近い。宇治一ノ坂。
訪問したが住職は不在だし,小さい寺で井戸など見るべき物は無かった。今は住宅街に囲まれた坂の中腹にたたずむ専修院には,かつて宇治郷の西の境界とされたこの地ならではの言い伝えが残されている。以下,ネット情報によると,
「いつからか分からないが、周辺の古いお年寄りに伝わっているようです」と話すのは福本哲了住職(62歳)。本堂の奥に見える竹藪脇の墓地に立つ板碑が歯痛を治してくれるというのだ。いわれは諸説あるようだが,宇治市史にも紹介されているのが明智光秀の伝承だ。本能寺の変の後,山崎の合戦で敗れた光秀は小栗栖(京都市伏見区)で農民らに襲われて死んだとされているが,これは影武者で,山崎から東の巨椋池を渡って専修院付近に落ち延びたというのだ。光秀は追っ手を逃れるため境内の藪の中の板碑の陰に隠れ,住職は敵勢に知らせずに助けた。これに光秀が感謝し,立ち去り際に「歯痛や発熱の際には必ず治癒するであろう」と告げたと伝えられている。敗走者とのゆかりは,近隣の地名にもみられる。専修院の北側には追手川と呼ばれる川が流れており,宇治から奈良へ向かう街道に石橋が架けられたという。
■神明神社:宇治市宇治神明宮西 近鉄大久保駅~JR宇治駅間にバスあり
ここも神主が不在であったが,広い敷地で,光秀に関する説明板や池もあり,十分に楽しめた。山崎の合戦に敗れた明智光秀が,山階に逃れる途次に隠れたと言い伝えのある古井戸を,「藻隱池」と称し現存(竹の井戸蓋)している。また,宇治市銘木百選である名木が昔の名残を止めている。伊勢神宮を本社とし,「お伊勢さん」とも呼ばれる1200年の歴史ある神社。内宮・外宮があり,正式名称は神明皇太宮。片や,伊勢市宇治には伊勢神宮内宮があり,五十鈴川には宇治橋がある。
愛宕百韻で執筆を務めた明智光秀の家臣の東行澄(私の14代前の祖)は,大東家の過去帳では,「山崎の合戦で戦死」とだけ記されているが,この辺りまで光秀のお供を
して逃げてきたのかも知れない,等と考えると感慨深い。坂東氏の住む堺市の南宗寺
には徳川家康の墓(大坂夏の陣で堺迄落ち延び死ぬ?)もあるので……。 (続く)
● あぢさゐの 色をあつめて 虚空とす 省ニ
西国観音霊場十番札所三室戸寺は6月中旬の「あじさい」の花で有名であるが,ツツジが満開であると聞いて急遽訪問した。岡井省二(1925~2001)は三重県出身の医師で俳人。虚空とは,大空・空間・無限などの意味があるとか。
●山吹や 宇治の焙炉の にほふ時 芭蕉
三室戸寺の階段を上がった本堂前の蓮池の端に歌碑があった。芭蕉が,宇治川の岸辺に咲く山吹を思い起こして詠んだ句であろう。焙炉は製茶用の大きな乾燥炉のこと。今回は,令和になって初めての,西国観音霊場札所訪問でもある。私は此処で33霊場中の23霊場を回ったことになる。歌碑の後ろの本堂で納経帖に御朱印を頂く。
▲ここは、紫式部の筆になる,「源氏物語」の宇治十帖にも描かれている所で,「浮舟の石碑」がある。宇治は貴族の山荘が営まれた勝境。「源氏物語」五十四帖の最後の十帖は,宇治市を舞台にしており,世に「宇治十帖」として知られる。
▲新羅大明神:三室戸寺は,平安時代に天台宗の寺院として近江の園城寺(三井寺)の別院として創建された。従って,園城寺の新羅善神堂を勧請して,入り口に祀られている。当地には智証大師円珍が中興する以前に大物主命を祀る三室(御室・御諸・三諸)神社が創建されていて,当地の人々の信仰の対象になっていたと考えられる。これは,出雲族や新羅国と関係があったのであろう。五條市の光明寺が,奈良国立博物館に寄託展示している8世紀統一新羅時代の金銅仏を思い出した。
▲三室戸寺は,ほとんどが平戸つつじ(長崎県平戸市)だが,その数20,000株。関西の寺社ではナンバーワン。霧島つつじ,久留米つつじ等も咲き誇る今が見ものだった。
私が4歳頃から高校卒業まで住んでいた西吉野町の実家にも赤い平戸つつじがあって10数年間手入れをしたり,楽しんできたので懐かしく手で触れ,写真を撮った。
花に囲まれた寺内の茶店で,三重の塔越しに見える明星山を眺め乍ら昼食。再びタクシー(1,100円位)に乗って専修院へ向かう。京阪宇治駅からは500円位だった。
■専修院:宇治市宇治弐番81 JR宇治駅に近い。宇治一ノ坂。
訪問したが住職は不在だし,小さい寺で井戸など見るべき物は無かった。今は住宅街に囲まれた坂の中腹にたたずむ専修院には,かつて宇治郷の西の境界とされたこの地ならではの言い伝えが残されている。以下,ネット情報によると,
「いつからか分からないが、周辺の古いお年寄りに伝わっているようです」と話すのは福本哲了住職(62歳)。本堂の奥に見える竹藪脇の墓地に立つ板碑が歯痛を治してくれるというのだ。いわれは諸説あるようだが,宇治市史にも紹介されているのが明智光秀の伝承だ。本能寺の変の後,山崎の合戦で敗れた光秀は小栗栖(京都市伏見区)で農民らに襲われて死んだとされているが,これは影武者で,山崎から東の巨椋池を渡って専修院付近に落ち延びたというのだ。光秀は追っ手を逃れるため境内の藪の中の板碑の陰に隠れ,住職は敵勢に知らせずに助けた。これに光秀が感謝し,立ち去り際に「歯痛や発熱の際には必ず治癒するであろう」と告げたと伝えられている。敗走者とのゆかりは,近隣の地名にもみられる。専修院の北側には追手川と呼ばれる川が流れており,宇治から奈良へ向かう街道に石橋が架けられたという。
■神明神社:宇治市宇治神明宮西 近鉄大久保駅~JR宇治駅間にバスあり
ここも神主が不在であったが,広い敷地で,光秀に関する説明板や池もあり,十分に楽しめた。山崎の合戦に敗れた明智光秀が,山階に逃れる途次に隠れたと言い伝えのある古井戸を,「藻隱池」と称し現存(竹の井戸蓋)している。また,宇治市銘木百選である名木が昔の名残を止めている。伊勢神宮を本社とし,「お伊勢さん」とも呼ばれる1200年の歴史ある神社。内宮・外宮があり,正式名称は神明皇太宮。片や,伊勢市宇治には伊勢神宮内宮があり,五十鈴川には宇治橋がある。
愛宕百韻で執筆を務めた明智光秀の家臣の東行澄(私の14代前の祖)は,大東家の過去帳では,「山崎の合戦で戦死」とだけ記されているが,この辺りまで光秀のお供を
して逃げてきたのかも知れない,等と考えると感慨深い。坂東氏の住む堺市の南宗寺
には徳川家康の墓(大坂夏の陣で堺迄落ち延び死ぬ?)もあるので……。 (続く)