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本物語

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第71号 2021.11.20

帰ってきたバット,あれこれ

小西 忠人

メジャーリーガー・マリナーズの菊池雄星,エンゼルスの大谷翔平=本県(岩手),花巻東高・先輩後輩=の投打にわたる活躍に心躍らせながらも,長いシーズンけがなく完走してほしいと願う一年だった。残念ながら,菊池雄星投手の勝利は厳しかったし,大谷翔平の代名詞「二刀流」でのベーブ・ルース以来103年ぶり「2桁勝利・2桁本塁打」の偉業達成は持ち越された。しかしプロ球人としての歩みはまだまだ続くし,この先,二人が目指す“高み”とはどんな景色なのか,楽しみがまた増えた気がする。
野球の話になるが,実は,私は郷土の野球の先人,久慈次郎(1898~1939)とのある種の“出会い”を経験している。「まあ,うそでしょう。どだい年代的にしておかしいし,実に犯罪的冗談だ」と必ずや,そうくるに違いないが,26年前にあった。
その前に,私の知る範囲での久慈次郎の話をしたい。その生涯はあまりにも劇的であるとともに社会人野球界において不世出の名捕手として球史に刻まれる。旧制盛岡中学(現盛岡一高)から早大へと進んだ久慈は,大学卒業後,函館水電に入社し,社会人野球の「函館太洋倶楽部」(函館オーシャン)でプレー。1934(昭和9)11月,ベーブ・ルース,ルー・ゲ―リックらアメリカ選抜チームが来日して開催された日米野球で全日本選抜チームに選ばれ,主将兼捕手として出場。エース沢村栄治,スタルヒンとバッテリーを組んでの好リードは「捕手久慈」の名声をほしいままにする。 
しかし日米対戦から5年後の8月19日。丸山球場での全道・樺太実業団野球大会に監督兼選手として試合に臨んだ久慈は,相手捕手の送球を右こめかみに受けて倒れ,2日後の午後9時7分,「一球入魂」を座右の銘にした野球道に永遠の別れを告げている。42歳。久慈の葬儀にはあふれんばかりの香拝者だったという。   
余談になるが,旧制盛岡中時代に久慈とバッテリーを組んだ,一年後輩の円子得二郎さん(故人)は,少年のころの話として私に「次郎さんは特段,上手な選手だとは思わなかったし,足も遅かった。ただ次郎さんは非常に人柄がいい,誰からも親しまれる純なスポーツマンで,文才にも長けていた。早大のころから徐々に頭角を現し,相当な実力をつけてきたらしかった」と久慈先輩を存じあげる小川さんの感想だった。
私の忘れ難いその“出会い”は、1995年(平成7)10月7日のことで,セッティング先のグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)に,私は共同通信大阪支社のカメラマンの車で向かった。その年に発生した「1・17」の3カ月後に大阪に
赴任していた私にとって,カメラマンのあまりにも重い話が今も心に付着しているが,六甲の山々に囲まれた震災の街々を走り続けていた。そうした何もかもが記憶されるその年の秋に,久慈の“分身”である「バット」が実に60年ぶりにアメリカで見つかり,遺族のもとに届けられるという心が和む瞬間を迎えていたからだった。
贈呈式は,第22回社会人野球日本選手権大会に合わせて行われ,父親と同じ名前を付けてもらったというご子息さんの手にしっかりと渡された。都市対抗野球での「久慈賞」,さらには野球人の最高の名誉「殿堂入り」した父親の「jiro-kuji」のサインとともに「一九三一年」と記されたバットを受け取った久慈さんは,「社会人野球の開幕に届けていただいたことはとてもうれしく感謝に堪えない」と喜びを述べ,「父のバットが見つかったという連絡を受けた時は,本当にびっくりした。このバットを(父が)見たら振りたくなって戻って来るんじゃないでしょうか」と関係者らに笑いを誘うなど何ともほほ笑ましい光景だった。バットの重さが約990グラム。現在使われて物より重く,グリップも太目。褐色のバットは黒ずんでいて長い保管を物語っていた。そのバットは,しばらく久慈家仏前に供えた後、野球博物館へ寄贈される意向だった。
こうして60年ぶりに“ホームイン”したバットは,メジャーリーグで「球聖」と呼ばれたタイ・カップ選手の映画「タイ・カップ」(1995年)の配給会社が映画の公開に当たって,遺品の収集中に偶然見つけたものだという。
では,なぜアメリカに―。あの時に聞くべきことだったと悔やむが既に遅し。ともあれその場しのぎの浅知恵ながら「一九三一年」と「jiro-kuji」のこの二カ所のサインがどうも気になる。そのサインが,バットや所持品を大事に扱う久慈の人間性を端的に示すとしても,さらにすごいのは「一九三一年」と年代まできちんと記入していることだ。しかしどうだろう。記入しなければならない何かがありはしないか,という理由―。であれば,久慈との強烈な関係,結びつき…。われながら久々に力が入った。その「一九三一年」に,ベーブ・ルースが来日しないも全17試合行われた「日米野球」。それが開催された「事実」。そして全日本選抜チームには早大OB,捕手・久慈が名を連ねた「事実」。つまり日米親善イコール友情の絆。それはまさに“文字通り”連携プレーよろしく両チームの選手が互いに“分身”を譲り合った―。私の独り言である。
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