本物語
第72号 2022330
「雨ニモマケズ手帳」と宮沢賢治記念館
小西 忠人
――宮沢賢治といえば「雨ニモマケズ」と考えられるようになったのは、高村光太郎が揮毫して「雨ニモマケズ」の後半部が刻まれた詩碑が花巻市桜町の「羅須地人協会」跡地に昭和11年11月21日に建立、23日に除幕してから、この詩碑の影響が大きいとされる――(花巻市・宮沢賢治記念館=特別展「賢治の祈り~雨ニモマケズ~」)
花巻市の宮沢賢治記念館が開館してから今年で40年になる。そのこともあって,私は数年ぶりに記念館を訪ねた。辺りが白く染まったままの1月の下旬のことだった。
館内は,賢治の死後に発見された遺品の一つの手帳(レプリカ)を公開する特別展「賢治の祈り~雨ニモマケズ」の期間中で,特別室の中央にガラスケースに収められた賢治の手帳があった。私にとっては,たとえレプリカといえどもお初にお目に掛かる「実物」。黒色レザー装の角も,鉛筆ホルダーも擦り切れていた箇所が何ともいえず,縦13.1センチ,横7.5センチの手帳が,いつも賢治の懐に入っていたんだと思って見ると,なんだかご本人がそばにいるような親近感やら親密感を覚えてしまった。
その賢治が,詩,童話,戯曲,短歌,俳句など膨大な量の文学作品を残してくれた。そんな中でもたいがいの人は「雨ニモマケズ 風ニモマケズ―」と一度や二度口にしていよう。国民的な「雨ニモ…」について記念館は「作品創作の意識とは一線を画するもので、文末の『サウイフモノニ ワタシハナリタイ』で終わっていることからも、自身の理想や希望、祈りや願いといったものとして捉えることができる」と説明している。こうした説明を受けて,ふと思ったのは,賢治の世界観を彩る多彩な表現や行動が時代を超えて光ると言われるのがそこなんだと,勝手に納得してしまった。「雨ニモ…」に題名もなく,いつも心に抱き続ける思いを己自身に言い聞かせ,吐露し,書き残していたことが詩となって,こうやって私たちが口に出来るのは有り難い。
この展ではまた,賢治の実弟清六さんのお孫さん,宮沢和樹さん(「林風舎」経営)のパンフレットで,祖父の話を交える一文が用意されてあった。正直言って,賢治の世界が難しく遠い存在とばかりに思い込んできた私である。しかしこの一文を手にして私は,心持ち“賢治さん”に接近,そんな気がするものだった。和樹さんは「その祖父が『雨ニモマケズは賢さんは作品として書いたのではないよ。あれは祈りだよ』と
言っていたのが心に焼きついています」と。そして和樹さんは「祖父は私に『この作品は後半が大事なんだ』と教えてくれました」と,その後半部分にふれていく。「北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」には活字になると「行ッテ」が入っていないと指摘。「原文の手帳を見ると『北ニ…』の前ページに赤鉛筆で『行ッテ』が書かれているのです」。「『行ッテ』がなぜ大事なのかというと、賢治にとって『法華経』をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ『行ッテ』なのだと思います」
記念館は,昭和57年(1982)9月21日,賢治没後50回忌に当たる年に開館している。当時私は花巻に赴任していてあの日を思い出すが,記念館建設は長年にわたって関係者の悲願であり,賢治ファン,花巻市民にしても同じ思いをしていたことを感じた。それはまさに,衆知の結集といえた。そこで私なりに思うことはこうだった。
記念館は,「信仰」「科学」「芸術」「農村」…7つ(平成27年にリニューアル、5つに構成)のフィールドに豊富な賢治資料がようやく展示された。収蔵庫には約3,400枚の賢治直筆原稿を保管。それらの遺稿,遺品は,昭和20年,終戦直前の空襲で宮沢家も被災されたが,清六さんが守り抜いた。このことを私たちは語り継ぎたい。一方,全国から声援とともに寄せられた浄財約2億円というとてつもない金額を見たことも,賢治の不退転な活動における世界観が,いかに待望されていたかの証明ともいえる。もう一つ,記念館が同市矢沢の胡四王山(標高183m)の中腹に建てられたゆえんは,賢治が「雨ニモ…」の手帳に「経埋ムベキ山」の一つと記されていたことにある。
特別展を見終えた私は,展望ラウンジに立ち寄ると,窓辺に置かれた「来館者ノート」に自然に目が止まった。熊本から,モンゴルから,20年ぶりにまた来て賢治に感謝する人たち―。それぞれの人たちの感想の多くは賢治からパワーをもらったという希望や勇気,自信の文字がいくつも並んでいた。それが今でも心に染みている。
「行ッテ」を教わり,心の“交友”も知る私だった。40年という時間が刻まれる中で,賢治さんは,「銀河」宇宙から理想郷イーハトーブをどう見つめていたんだろうか。
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」…。寒林の間から聞こえてくる感じがしたが,そうした思いもしないまま,ただ年を重ねてきた私は雪硬い胡四王山を下った。
花巻市の宮沢賢治記念館が開館してから今年で40年になる。そのこともあって,私は数年ぶりに記念館を訪ねた。辺りが白く染まったままの1月の下旬のことだった。
館内は,賢治の死後に発見された遺品の一つの手帳(レプリカ)を公開する特別展「賢治の祈り~雨ニモマケズ」の期間中で,特別室の中央にガラスケースに収められた賢治の手帳があった。私にとっては,たとえレプリカといえどもお初にお目に掛かる「実物」。黒色レザー装の角も,鉛筆ホルダーも擦り切れていた箇所が何ともいえず,縦13.1センチ,横7.5センチの手帳が,いつも賢治の懐に入っていたんだと思って見ると,なんだかご本人がそばにいるような親近感やら親密感を覚えてしまった。
その賢治が,詩,童話,戯曲,短歌,俳句など膨大な量の文学作品を残してくれた。そんな中でもたいがいの人は「雨ニモマケズ 風ニモマケズ―」と一度や二度口にしていよう。国民的な「雨ニモ…」について記念館は「作品創作の意識とは一線を画するもので、文末の『サウイフモノニ ワタシハナリタイ』で終わっていることからも、自身の理想や希望、祈りや願いといったものとして捉えることができる」と説明している。こうした説明を受けて,ふと思ったのは,賢治の世界観を彩る多彩な表現や行動が時代を超えて光ると言われるのがそこなんだと,勝手に納得してしまった。「雨ニモ…」に題名もなく,いつも心に抱き続ける思いを己自身に言い聞かせ,吐露し,書き残していたことが詩となって,こうやって私たちが口に出来るのは有り難い。
この展ではまた,賢治の実弟清六さんのお孫さん,宮沢和樹さん(「林風舎」経営)のパンフレットで,祖父の話を交える一文が用意されてあった。正直言って,賢治の世界が難しく遠い存在とばかりに思い込んできた私である。しかしこの一文を手にして私は,心持ち“賢治さん”に接近,そんな気がするものだった。和樹さんは「その祖父が『雨ニモマケズは賢さんは作品として書いたのではないよ。あれは祈りだよ』と
言っていたのが心に焼きついています」と。そして和樹さんは「祖父は私に『この作品は後半が大事なんだ』と教えてくれました」と,その後半部分にふれていく。「北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」には活字になると「行ッテ」が入っていないと指摘。「原文の手帳を見ると『北ニ…』の前ページに赤鉛筆で『行ッテ』が書かれているのです」。「『行ッテ』がなぜ大事なのかというと、賢治にとって『法華経』をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ『行ッテ』なのだと思います」
記念館は,昭和57年(1982)9月21日,賢治没後50回忌に当たる年に開館している。当時私は花巻に赴任していてあの日を思い出すが,記念館建設は長年にわたって関係者の悲願であり,賢治ファン,花巻市民にしても同じ思いをしていたことを感じた。それはまさに,衆知の結集といえた。そこで私なりに思うことはこうだった。
記念館は,「信仰」「科学」「芸術」「農村」…7つ(平成27年にリニューアル、5つに構成)のフィールドに豊富な賢治資料がようやく展示された。収蔵庫には約3,400枚の賢治直筆原稿を保管。それらの遺稿,遺品は,昭和20年,終戦直前の空襲で宮沢家も被災されたが,清六さんが守り抜いた。このことを私たちは語り継ぎたい。一方,全国から声援とともに寄せられた浄財約2億円というとてつもない金額を見たことも,賢治の不退転な活動における世界観が,いかに待望されていたかの証明ともいえる。もう一つ,記念館が同市矢沢の胡四王山(標高183m)の中腹に建てられたゆえんは,賢治が「雨ニモ…」の手帳に「経埋ムベキ山」の一つと記されていたことにある。
特別展を見終えた私は,展望ラウンジに立ち寄ると,窓辺に置かれた「来館者ノート」に自然に目が止まった。熊本から,モンゴルから,20年ぶりにまた来て賢治に感謝する人たち―。それぞれの人たちの感想の多くは賢治からパワーをもらったという希望や勇気,自信の文字がいくつも並んでいた。それが今でも心に染みている。
「行ッテ」を教わり,心の“交友”も知る私だった。40年という時間が刻まれる中で,賢治さんは,「銀河」宇宙から理想郷イーハトーブをどう見つめていたんだろうか。
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」…。寒林の間から聞こえてくる感じがしたが,そうした思いもしないまま,ただ年を重ねてきた私は雪硬い胡四王山を下った。