本物語
第72号 2022330
震災を乗り越えて とは?
井上 剛
東日本大震災から10年。私は,震災当時のことを振り返り,三九出版発行の『忘れていませんか 東日本大震災』に寄稿させていただいた。その時のタイトルは,「震災を乗り越えて」。私は,自分たちの経験を周りの人たちに語る機会をいただくたびに,10年前から,このタイトルでお話をさせていただいてきた。これからも,このタイトルで話し続けていきたいと思っている。
『忘れていませんか 東日本大震災』では,被災当日のことを中心に,当時私が校長を務めていた旧山元町立中浜小学校で起きたこと,その対応などを伝えた。今回は,その続編という位置付けで,書いてみたい。
まず「震災」という語句の意味について述べておきたい。私見と言われればそれまでだが,私がこの言葉に込めた意味は,災害に直面した瞬間や災害の名称を指すのではない。被災後から,今日まで多くの人たちが直面してきた様々な困難も含まれていると思っている。一つ乗り越えると行く手には更に大きな困難が目前に立ちはだかっていた。これを何とか乗り越えてきて,今があると思う。したがって,今もなお形を変えて続くものであり,乗り越えていく途中にある。10年節目で終わるものではない。
子どもたちの成長の過程で,子どもたちが経験した多くの困難。家庭を支える大人たちの仕事上,経済上,その他数知れぬ困難。見知らぬ土地に転居した人たちが周囲の無理解に苦しんだ日々。仕事を取るか家族を取るかで悩みながらも懸命に取り組んだ日々。沿岸部と内陸部の認識のギャップに口を閉ざさざるを得なかった日々。大切な人を失ってしまった悲しみに明け暮れた日々。
しかし,これらを支えてくれた人々の優しさにも気づいた日々。
語り尽くせないほどの困難を,今まで生き抜いてきた人たちは乗り越えてきた。そして,これからも大なり小なり,乗り越えていかなければならないと覚悟している。
中浜小学校の屋上で一夜を過ごした翌早朝に,救助ヘリコプターに救助された。校庭は,かさ上げが功を奏したのか,水が引け瓦礫がなく着陸できた。90名が1時間程度の短時間で救助された。更に屋上で使用した非常用毛布を持って搭乗することを許された。私たちは,次の避難所での困難を予想して毛布を抱えて搭乗した。着陸地点でしばらく待機していた時に,全身ずぶ濡れのご婦人が救助されてきた。低体温でガタガタ震えている。私たちは,このご婦人に持参した毛布を掛けた。もし,屋上から毛布を持ち出さなかったら,可哀そうだとは思っても,何もできなかった。このことは,とても印象深く記憶している。次の困難を予測して,具体的に今できることを行動に移すことは,未来の自分・周りの人々を救うことにつながると思うようになった。
避難所の生活は,どこでもそうだっただろう。まるで野戦病院のような混とんとした状況で始まった。はじめは,ないものだらけ,分からないことだらけで始まった。「避難所は,万能ではない。」不満を言うよりも,工夫して支えあうことができる避難所は,やがて落ち着きを取り戻し居心地の良い避難所となっていく。
多くの場合,行政職員は,避難所の本部としての役割に奔走する。しかし,初めから,その仕事に精通しているわけがない。もともと専門は事務職だ。みんな手探りで精一杯頑張っていた。学校の職員は,懸命に支えた。私は,沿岸部のこれら職員の方々を誇りに思う。
被災した市町の職員は,自分たちも被災者だった。家を流され,家族の安否を気遣いながらも,懸命に動いていた。私は,その様子をつぶさに見て,共に行動した。「運営する側の人たちも被災者だ。」避難所は,「サービスをする側と受ける側に二極化してはならない。」被災した方たちも含めて全員で支えあうことが大事だと感じた。
坂元中学校避難所は,運営側と避難してこられた方々,津波の被害の少なかった坂元地区の方々からの支え合いで運営することができた。
子どもの存在は,とても大きかった。大人は,置かれている厳しい現状が分かるだけに意気消沈していた。子どもたちだって,不安だった。しかし,子どもたちは,自分たちのできることを話し合って周りの大人に明るい挨拶と掃除・プールから水汲み等を始めた。子どもたちの姿に励まされ,やがて大人たちが動き出した。まずは,ばあちゃん・ご婦人たちが動き出した。父ちゃんたちは,焚火を囲んで自主警備に乗り出した。教職員は,自分から仕事を探して支えた。「被災した方々は,その道のプロの集団である。」私たちは,被災した方々のできること。その力を頼りにすることにした。この力は,実に大きかった。皆で支えあう避難所は,居心地が良くなってきた。
( ※ 本稿は昨年の12月初旬にいただいたものです。掲載が遅くなりましたことをお詫びいたします。なお、以後のことは次号以降に複数回に亘ってご執筆いただきます。――三九出版)
『忘れていませんか 東日本大震災』では,被災当日のことを中心に,当時私が校長を務めていた旧山元町立中浜小学校で起きたこと,その対応などを伝えた。今回は,その続編という位置付けで,書いてみたい。
まず「震災」という語句の意味について述べておきたい。私見と言われればそれまでだが,私がこの言葉に込めた意味は,災害に直面した瞬間や災害の名称を指すのではない。被災後から,今日まで多くの人たちが直面してきた様々な困難も含まれていると思っている。一つ乗り越えると行く手には更に大きな困難が目前に立ちはだかっていた。これを何とか乗り越えてきて,今があると思う。したがって,今もなお形を変えて続くものであり,乗り越えていく途中にある。10年節目で終わるものではない。
子どもたちの成長の過程で,子どもたちが経験した多くの困難。家庭を支える大人たちの仕事上,経済上,その他数知れぬ困難。見知らぬ土地に転居した人たちが周囲の無理解に苦しんだ日々。仕事を取るか家族を取るかで悩みながらも懸命に取り組んだ日々。沿岸部と内陸部の認識のギャップに口を閉ざさざるを得なかった日々。大切な人を失ってしまった悲しみに明け暮れた日々。
しかし,これらを支えてくれた人々の優しさにも気づいた日々。
語り尽くせないほどの困難を,今まで生き抜いてきた人たちは乗り越えてきた。そして,これからも大なり小なり,乗り越えていかなければならないと覚悟している。
中浜小学校の屋上で一夜を過ごした翌早朝に,救助ヘリコプターに救助された。校庭は,かさ上げが功を奏したのか,水が引け瓦礫がなく着陸できた。90名が1時間程度の短時間で救助された。更に屋上で使用した非常用毛布を持って搭乗することを許された。私たちは,次の避難所での困難を予想して毛布を抱えて搭乗した。着陸地点でしばらく待機していた時に,全身ずぶ濡れのご婦人が救助されてきた。低体温でガタガタ震えている。私たちは,このご婦人に持参した毛布を掛けた。もし,屋上から毛布を持ち出さなかったら,可哀そうだとは思っても,何もできなかった。このことは,とても印象深く記憶している。次の困難を予測して,具体的に今できることを行動に移すことは,未来の自分・周りの人々を救うことにつながると思うようになった。
避難所の生活は,どこでもそうだっただろう。まるで野戦病院のような混とんとした状況で始まった。はじめは,ないものだらけ,分からないことだらけで始まった。「避難所は,万能ではない。」不満を言うよりも,工夫して支えあうことができる避難所は,やがて落ち着きを取り戻し居心地の良い避難所となっていく。
多くの場合,行政職員は,避難所の本部としての役割に奔走する。しかし,初めから,その仕事に精通しているわけがない。もともと専門は事務職だ。みんな手探りで精一杯頑張っていた。学校の職員は,懸命に支えた。私は,沿岸部のこれら職員の方々を誇りに思う。
被災した市町の職員は,自分たちも被災者だった。家を流され,家族の安否を気遣いながらも,懸命に動いていた。私は,その様子をつぶさに見て,共に行動した。「運営する側の人たちも被災者だ。」避難所は,「サービスをする側と受ける側に二極化してはならない。」被災した方たちも含めて全員で支えあうことが大事だと感じた。
坂元中学校避難所は,運営側と避難してこられた方々,津波の被害の少なかった坂元地区の方々からの支え合いで運営することができた。
子どもの存在は,とても大きかった。大人は,置かれている厳しい現状が分かるだけに意気消沈していた。子どもたちだって,不安だった。しかし,子どもたちは,自分たちのできることを話し合って周りの大人に明るい挨拶と掃除・プールから水汲み等を始めた。子どもたちの姿に励まされ,やがて大人たちが動き出した。まずは,ばあちゃん・ご婦人たちが動き出した。父ちゃんたちは,焚火を囲んで自主警備に乗り出した。教職員は,自分から仕事を探して支えた。「被災した方々は,その道のプロの集団である。」私たちは,被災した方々のできること。その力を頼りにすることにした。この力は,実に大きかった。皆で支えあう避難所は,居心地が良くなってきた。
( ※ 本稿は昨年の12月初旬にいただいたものです。掲載が遅くなりましたことをお詫びいたします。なお、以後のことは次号以降に複数回に亘ってご執筆いただきます。――三九出版)