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本物語

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第72号 2022330

仙台市川内(かわうち)

白川 治子

 小学校3年の秋から結婚で上京するまでの住所は,仙台市川内三十人町。仙台城(青葉城)から見て広瀬川の内側にあるので川内,三十人町は足軽が三十人程度住んでいたからの町名だと郷土史家に聞いたことがある。身分の低い武士が住んでいた地だ。
 私は自宅から10分も歩けば着いてしまうT大学の川内キャンパスに通っていた。大学生にとって家が近いことは嬉しくもなんともない。新生活への期待感まで薄らいでいく。もっとも入学の半年前までは郊外の富沢という辺鄙な地に1・2年生が通う教養部があり,通学には1時間以上かかったと思う。近いからとて不満に思うのは,ぜいたくというものだ。
 富沢から川内に移転したのは,進駐軍が撤退したからである。敗戦後すぐにアメリカの進駐軍が川内を占領し,仙台キャンプとか川内キャンプと呼んでいた。川内キャンプは,名前だけは似ている川内キャンパスに変わり,アメリカ軍人が闊歩していた地が,詰襟の学生服を着た若者の地になった。アメリカ人と学生が入れ替わっても,設備までは追いつかない。教室は,緑と白を基調とした進駐軍のかまぼこ型の兵舎を利用したものが多かった。
 川内に進駐軍がいたのは終戦から10数年間で,私が小中高生の頃だ。一般市民は立ち入り禁止だったが,川内に住む住民はパスが与えられ,MPが立つ検問所でパスを見せれば自由に出入りできた。川の外にある小学校に通学するには,キャンプ内を通らない方が近いのに,リトルアメリカをのぞき見するのが嬉しくてよく回り道をしたものだ。「なぜこんなに豊かな国と戦争をしたんだろう」と小学生の私ですら感じたことが数々ある。大雪が降っても道路は溶けて蒸気があがっていた。冬に大型の自家用車から降りて自宅に入る女性の洋服は,半袖だった。車も家も暑すぎるほど暖房していたのだろう。私の住む県営住宅は目張りをしても隙間風が入り,着ぶくれていた。
 ボーリング場もあった。まっすぐ転がらないものだなと軍人の一喜一憂の顔を見て私も楽しんでいた。そのうちに気づいた。ボーリングのピンを立てているのは日本人だった。黙々とやっている単純作業に腹が立った。でも,これが敗戦国なんだなと。
 とはいえ,アメリカ人は陽気でウィンクしながら笑ってくれるし,コーラをごちそうになったこともある。仙台ではまだ花火大会がない頃に,キャンプ内では独立記念
日に打ち上げていた。なにより印象に残ったのは,軍人数人で歩いている時でさえ,全員の足並みが揃っていたことだ。うっとりするほどカッコよかった。不思議なことに嬉々としてアメリカ人の話を父母に話しても,咎められることはなかった。ちょっと前までは「鬼畜」と呼んでいたというのに。
 進駐軍の前は,陸軍の第二師団が置かれていた。1888(明治21)から1945(昭和20)年の陸軍解体までは,繁華街でも軍人の姿が目立ったようだ。父母は戦前に東京から転勤してきたが,当時の住まいは川内ではなかったので,第二師団内部の様子はよく知らないらしい。いずれにしても大半の建物は空襲で焼けてしまった。B29が爆弾を落とすのに,陸軍師団ほどの適所はないのだから仕方ない。
 「軍人が威張り腐っていて,とてもイヤだった。敗けてよかったのさ」と言う話は父からさんざん聞いている。子どもにこんな話をしたら,戦時中なら憲兵に引っ張られるところだ。
 江戸時代は仙台城の二の丸だったが,陸軍が進出してくる前の明治維新後20年間は,荒地だったような気がする。伊達62万石の二の丸だから立派な建物が並び武士が公務に励んでいたに違いない。政宗が築いた天守台・本丸は高い場所にあるが,二の丸はそこからかなり下った所にある。仙台藩は薩長に抵抗したうえに廃城令も出ている。陸軍の第二師団が来た頃は,江戸時代の建物は跡形もなかったのではないか。大手門だけは写真で見たことがあるが,それも仙台空襲で焼け落ちた。
 こうして川内の変遷をたどると,日本の歴史そのものである。政宗以前の地は知らないが,少なくとも戦国時代末期から現在までの歩みを「川内」に見ることが出来る。刀を差し裃を着た武士が草履で歩いた地を,帝国軍人が軍靴で闊歩し,日清日露戦争はじめ第一次第二次戦争に出兵していった。一転して,アメリカ軍人が進駐してきて,MPなどの軍人が規則正しい歩幅で歩いていた。返還後は川内を歩く人々はがらりと変わり,T大学の学生が黒い学生服で青春を謳歌。しばらくすると学帽も学生服も消えた。今の学生はTシャツにジーンズにスニーカーというラフな格好で楽し気に歩いている。学生服が姿を消した頃には,進駐軍時代の建物はなくなり,T大学はコンクリート校舎に変わった。
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