本物語
第73号 2022.7.20
両親の五十回忌を迎えて
山本 年樹
1973年(昭和48年),その年は第一次オイルショックで世の中が大きく動きましたが,私にとっては痛切な悲しみの年として心に刻まれています。
その年,7月に母が胃癌で死亡し,更に12月に父が交通事故で後を追いました。
当時,私は東京で働いていましたが,故郷宇和島への正月の帰省の時,母から相談を受けたのです。主治医のお話で,このまま放置しておけば後3年の命であるということで,手術を勧められたというのです。長男の私に意見を求めてきたのです。私は,1年でも長生きしてほしいとの想いから強く手術を主張しました。両親ともに同じ気持ちだったので,松山のガンセンターで手術をしてもらいました。手術そのものは無事終了したのですが,その後腹膜炎を併発して,引き続き入院治療をしていました。病状は一進一退で,私も付き添いを続けていました。ある晩のことです,母が珍しく明るい声で私に声をかけてきました。「年樹ちゃん! 仕事があるのに,私に付き合わせてすまないね。もうすぐ良くなると思うよ。」私は母にそうなるといいねと相づちをうちながら,少し不安な気持ちも感じていました。翌朝のこと,容態が急に悪化し,なんとか助けようと延命措置を試みましたが,その甲斐もなくその病院で息をひきとりました。前夜のことは,命の最後のきらめきだったのでしょうか?私が強く勧めなければ,3年は生きておられたと思うと自責の念にかられて辛い日々となり,再三母の夢をみました。
そして,その年の暮,故郷の妹から突然父の事故死の連絡を受けました。その日のうちに松山までの航空便に乗り,自宅にかけつけました。物言わぬ父の前で,事情を聞きました。自宅近所の和霊神社の交差点で横断中に車にはねられたというのです。皮肉なことに,その日は交通安全の日ということで,警官が交通整理に当たっていました。父は足が弱く,ゆっくり歩くことしかできません。相手車の運転手の説明では,右折の際,夕日が目に入って視界が閉ざされたというのですが,明らかに不注意事故です。しかし,父が戻ってくることはありません。親戚の方のお話で,長年連れ添った仲良し夫婦が,片方が亡くなるとあの世に呼び寄せるというのです。しかし,こんなことで私の心の傷を癒すことはできません。
仕事が忙しいということを口実に,親孝行もできずにいた私にとって,悔やみきれない過酷な出来事でした。こうして母58歳,父65歳との突然の別れとなりました。
更に,娘たち(当時4歳・3歳)のお葬式ごっこを見て,心を揺さぶられました。自分たちのおもちゃ箱に,人形を置き,これも入れてあげましょう,あれも入れてあげましょうと,甲斐甲斐しく動いているのです。葬儀が2回も行われたので,余程印象が深かったのでしょう。
今年は,両親の五十回忌を迎えます。久しぶりに宇和島にロングステイするつもりです。私はその町で高校まで過ごしました。先生方や級友たちに恵まれ,のびのびとした学生時代を過すことができました。自宅そばの愛和幼稚園のイシドロ神父との出会いも印象的です。悪ガキで人見知りだった私は,迎えにこられた福井先生の顔をかきむしって幼稚園へ行くことに抵抗したようです。又,裏山のザクロの実を勝手に取ったり,前の小川でカニを取ったり遊んでばかりしていたようです。しかし,やさしい園長神父は大好きで,いつも腕にぶら下がって,後について行ってました。このことは現役の頃は忘れていましたが,人生後半となり,しきりに昔のことが懐かしく思い出されます。6年間のブラジル駐在時代に,イエズス会の宣教師たちの壮絶な生き方を見て,ミッションというものが大きな力になっていることを実感しました。そして,500年前に来日したザビエルとイシドロ神父が私には二重写しのように映り,後に拙著『遥かなるザビエル』の刊行に繋がりました。
父は職人気質の不器用な床屋で,母が3人のお弟子さんや家の切り盛りなどを担っていました。今となって,私を温かく見守ってくれた両親の深い愛情を実感しています。母の得意としていたほうたれイワシの薩摩汁は,私もすり鉢で魚のすり身を作るお手伝いをしました。ご飯にかけて食べるのですが,何杯もおかわりするほど美味しかったです。今回の帰郷では自炊をしてその味の再現にも挑戦したいと考えています。
私は昨年傘寿となり,両親の年齢を大きく上回りました。親不孝であった私ですが,半年間古里で生活を送り,両親を追憶しつつ,できるかぎり身近に感じたいと思っています。しばらくは、あなたたちの息子として,一緒に過ごさせてください,と念じつつ。せめてもの親孝行といえるのでしょうか?
その年,7月に母が胃癌で死亡し,更に12月に父が交通事故で後を追いました。
当時,私は東京で働いていましたが,故郷宇和島への正月の帰省の時,母から相談を受けたのです。主治医のお話で,このまま放置しておけば後3年の命であるということで,手術を勧められたというのです。長男の私に意見を求めてきたのです。私は,1年でも長生きしてほしいとの想いから強く手術を主張しました。両親ともに同じ気持ちだったので,松山のガンセンターで手術をしてもらいました。手術そのものは無事終了したのですが,その後腹膜炎を併発して,引き続き入院治療をしていました。病状は一進一退で,私も付き添いを続けていました。ある晩のことです,母が珍しく明るい声で私に声をかけてきました。「年樹ちゃん! 仕事があるのに,私に付き合わせてすまないね。もうすぐ良くなると思うよ。」私は母にそうなるといいねと相づちをうちながら,少し不安な気持ちも感じていました。翌朝のこと,容態が急に悪化し,なんとか助けようと延命措置を試みましたが,その甲斐もなくその病院で息をひきとりました。前夜のことは,命の最後のきらめきだったのでしょうか?私が強く勧めなければ,3年は生きておられたと思うと自責の念にかられて辛い日々となり,再三母の夢をみました。
そして,その年の暮,故郷の妹から突然父の事故死の連絡を受けました。その日のうちに松山までの航空便に乗り,自宅にかけつけました。物言わぬ父の前で,事情を聞きました。自宅近所の和霊神社の交差点で横断中に車にはねられたというのです。皮肉なことに,その日は交通安全の日ということで,警官が交通整理に当たっていました。父は足が弱く,ゆっくり歩くことしかできません。相手車の運転手の説明では,右折の際,夕日が目に入って視界が閉ざされたというのですが,明らかに不注意事故です。しかし,父が戻ってくることはありません。親戚の方のお話で,長年連れ添った仲良し夫婦が,片方が亡くなるとあの世に呼び寄せるというのです。しかし,こんなことで私の心の傷を癒すことはできません。
仕事が忙しいということを口実に,親孝行もできずにいた私にとって,悔やみきれない過酷な出来事でした。こうして母58歳,父65歳との突然の別れとなりました。
更に,娘たち(当時4歳・3歳)のお葬式ごっこを見て,心を揺さぶられました。自分たちのおもちゃ箱に,人形を置き,これも入れてあげましょう,あれも入れてあげましょうと,甲斐甲斐しく動いているのです。葬儀が2回も行われたので,余程印象が深かったのでしょう。
今年は,両親の五十回忌を迎えます。久しぶりに宇和島にロングステイするつもりです。私はその町で高校まで過ごしました。先生方や級友たちに恵まれ,のびのびとした学生時代を過すことができました。自宅そばの愛和幼稚園のイシドロ神父との出会いも印象的です。悪ガキで人見知りだった私は,迎えにこられた福井先生の顔をかきむしって幼稚園へ行くことに抵抗したようです。又,裏山のザクロの実を勝手に取ったり,前の小川でカニを取ったり遊んでばかりしていたようです。しかし,やさしい園長神父は大好きで,いつも腕にぶら下がって,後について行ってました。このことは現役の頃は忘れていましたが,人生後半となり,しきりに昔のことが懐かしく思い出されます。6年間のブラジル駐在時代に,イエズス会の宣教師たちの壮絶な生き方を見て,ミッションというものが大きな力になっていることを実感しました。そして,500年前に来日したザビエルとイシドロ神父が私には二重写しのように映り,後に拙著『遥かなるザビエル』の刊行に繋がりました。
父は職人気質の不器用な床屋で,母が3人のお弟子さんや家の切り盛りなどを担っていました。今となって,私を温かく見守ってくれた両親の深い愛情を実感しています。母の得意としていたほうたれイワシの薩摩汁は,私もすり鉢で魚のすり身を作るお手伝いをしました。ご飯にかけて食べるのですが,何杯もおかわりするほど美味しかったです。今回の帰郷では自炊をしてその味の再現にも挑戦したいと考えています。
私は昨年傘寿となり,両親の年齢を大きく上回りました。親不孝であった私ですが,半年間古里で生活を送り,両親を追憶しつつ,できるかぎり身近に感じたいと思っています。しばらくは、あなたたちの息子として,一緒に過ごさせてください,と念じつつ。せめてもの親孝行といえるのでしょうか?