本物語
第73号 2022.7.20
震災を乗り越えて とは? 続編1
井上 剛
本誌前号に引き続き,私のつたない文章にお付き合いいただくことをお許しください。前号では,避難所生活までのことでした。今号では,中浜小学校が近くの坂元小学校で授業を再開した時のことを中心にお伝えします。
「間借り」という言葉を当時頻繁に聞いた方は,多いと思う。「間借り」とは,あくまでも借り物。被災した学校の教師も,子ども・保護者たちも肩身の狭い思いをする。そのような意味を持つ言葉が配慮なしに使われていた。しかし,山元町では,「併設」と表現するよう,平成23年度山元町教育基本方針にいち早く打ち出した。私は,この表現に教育長の配慮を感じ,しびれる思いで拝聴した。「併設」という言葉には,「山元町の財産である坂元小学校の校舎を坂元小と中浜小が対等に使用しなさい」という意味がある。「間借り」ではなく「併設」と呼ぶ。授業再開の当初に示した教育長の卓越したリーダーシップに,私たちは感激し,大いに力を得た。この教育長のもとであれば,これからの困難に立ち向かうことができると思った。言葉には,力がある。
被災一週間後から教職員の数名で探索隊を編成し,中浜小校舎に向かった。校舎内部は,海底の泥が5cm以上堆積し,瓦礫が足の踏み場もないほどに散乱していた。ホールには,多くの瓦礫が集まっていた。職員室は,すべてが流されていた。校長室は,三方の丈夫な壁があり,多くの物が残っていた。金庫は,うつ伏せに倒れていたが,流されなかった。金庫の中の書類は,濡れていた。体育館1階の倉庫を探索した。非常用毛布が保管されていた場所だ。ここで,神楽に使用していた大太鼓が流されずに見つかった。叩いてみたら,音が出た。この瞬間,「中浜子ども神楽」の復活を強く意識するようになった。この頃から,自衛隊が病気の発生を防止するため校舎の清掃に入っていた。使えそうなものがあれば,持ち帰ることにした。
「中浜小は,将来震災遺構として残す可能性がある」と町教委がいち早く明確な方向性を示した。この方針がこの時期に出ていなければ,震災遺構中浜小学校は,当時の現状を見学する方々に示すことができず,保存されていなかったかもしれない。この点においても,当時の山元町教育長の優れたリーダーシップがあったと思う。「この校舎は,将来への教訓を示すことができる。保存したい。」と願うようになった。
震災前から「中浜子ども神楽」を4年生が学習していた。中浜神楽保存会の二ノ宮
さんがいつも熱心な指導をしてくださっていた。彼は津波で亡くなった。指導者を失い,衣装や用具のほとんどを流され,神楽の再開は,難しい状況だった。でも,瓦礫から発見した大太鼓は音が出る。二ノ宮さんに報いる意味でも,中浜子ども神楽の復活を決意した。すぐに実現できるものではない。私の役目は,復活を遂げる環境を整えることだった。子どもたちの気持ちを大切にしつつ,水面下では,環境を整える行動を開始した。通ってくる子どもたちの笑顔を取り戻すために学校は,懸命に努めたつもりだ。しかし,土日明けに登校してくる子どもたちの表情は,硬くなっていた。学校の中だけで頑張っても子どもたちの笑顔は取り戻せない。生易しい状況ではないことを意味していた。大人たちは,現実の困難に立ち向かいながらも打ちのめされていた。家族の笑顔は少なくなっていたようだ。私は,周辺の仮設住宅などを訪問した。そこで目の当たりにしたのは,あれだけ元気だったお年寄りたちが,狭い台所に集まって元気なくお茶飲みをしている光景だった。彼らを元気にすることが家庭を明るくすることにつながることだと思った。流された神楽の衣装を敢えて意気消沈しているお年寄りたちにつくってもらおうと思った。布は,坂元地区の衣料組合に頼み込んで無償で提供してもらうことができた。制作を依頼されたお年寄りたちは,仮設住宅の集会所に集まって,秋の運動会に間に合うように作り始めてくれた。これが,お年寄りのパワーの復活につながった。お年寄りたちは,夜なべ仕事までして,衣装づくりに励んでくれた。衣装が完成し,子どもたちと仮設住宅を訪れ,衣装を着せてもらった時の子どもたちの表情,特にお年寄りたちの表情を忘れることができない。
坂元小との合同開催の秋の運動会は,賑やかに開催された。中浜小学校は,この運動会で子ども神楽の復活を宣言した。待ちに待った瞬間となった。神楽を舞う姿に勇気をもらい,山元町の多くの方が前を向いて動き出した。
中浜小が廃校となり坂元小に統合された現在も,「子ども神楽」は存続し,発展を遂げている。中浜神楽保存会と坂元神楽保存会の方々が,それぞれの所作の違い等を乗り越えて指導してくださっている。子どもたちの笑顔を取り戻すには,学校と地域がお互いを知り,仲良く協力することが不可欠だと改めて思った。
「間借り」という言葉を当時頻繁に聞いた方は,多いと思う。「間借り」とは,あくまでも借り物。被災した学校の教師も,子ども・保護者たちも肩身の狭い思いをする。そのような意味を持つ言葉が配慮なしに使われていた。しかし,山元町では,「併設」と表現するよう,平成23年度山元町教育基本方針にいち早く打ち出した。私は,この表現に教育長の配慮を感じ,しびれる思いで拝聴した。「併設」という言葉には,「山元町の財産である坂元小学校の校舎を坂元小と中浜小が対等に使用しなさい」という意味がある。「間借り」ではなく「併設」と呼ぶ。授業再開の当初に示した教育長の卓越したリーダーシップに,私たちは感激し,大いに力を得た。この教育長のもとであれば,これからの困難に立ち向かうことができると思った。言葉には,力がある。
被災一週間後から教職員の数名で探索隊を編成し,中浜小校舎に向かった。校舎内部は,海底の泥が5cm以上堆積し,瓦礫が足の踏み場もないほどに散乱していた。ホールには,多くの瓦礫が集まっていた。職員室は,すべてが流されていた。校長室は,三方の丈夫な壁があり,多くの物が残っていた。金庫は,うつ伏せに倒れていたが,流されなかった。金庫の中の書類は,濡れていた。体育館1階の倉庫を探索した。非常用毛布が保管されていた場所だ。ここで,神楽に使用していた大太鼓が流されずに見つかった。叩いてみたら,音が出た。この瞬間,「中浜子ども神楽」の復活を強く意識するようになった。この頃から,自衛隊が病気の発生を防止するため校舎の清掃に入っていた。使えそうなものがあれば,持ち帰ることにした。
「中浜小は,将来震災遺構として残す可能性がある」と町教委がいち早く明確な方向性を示した。この方針がこの時期に出ていなければ,震災遺構中浜小学校は,当時の現状を見学する方々に示すことができず,保存されていなかったかもしれない。この点においても,当時の山元町教育長の優れたリーダーシップがあったと思う。「この校舎は,将来への教訓を示すことができる。保存したい。」と願うようになった。
震災前から「中浜子ども神楽」を4年生が学習していた。中浜神楽保存会の二ノ宮
さんがいつも熱心な指導をしてくださっていた。彼は津波で亡くなった。指導者を失い,衣装や用具のほとんどを流され,神楽の再開は,難しい状況だった。でも,瓦礫から発見した大太鼓は音が出る。二ノ宮さんに報いる意味でも,中浜子ども神楽の復活を決意した。すぐに実現できるものではない。私の役目は,復活を遂げる環境を整えることだった。子どもたちの気持ちを大切にしつつ,水面下では,環境を整える行動を開始した。通ってくる子どもたちの笑顔を取り戻すために学校は,懸命に努めたつもりだ。しかし,土日明けに登校してくる子どもたちの表情は,硬くなっていた。学校の中だけで頑張っても子どもたちの笑顔は取り戻せない。生易しい状況ではないことを意味していた。大人たちは,現実の困難に立ち向かいながらも打ちのめされていた。家族の笑顔は少なくなっていたようだ。私は,周辺の仮設住宅などを訪問した。そこで目の当たりにしたのは,あれだけ元気だったお年寄りたちが,狭い台所に集まって元気なくお茶飲みをしている光景だった。彼らを元気にすることが家庭を明るくすることにつながることだと思った。流された神楽の衣装を敢えて意気消沈しているお年寄りたちにつくってもらおうと思った。布は,坂元地区の衣料組合に頼み込んで無償で提供してもらうことができた。制作を依頼されたお年寄りたちは,仮設住宅の集会所に集まって,秋の運動会に間に合うように作り始めてくれた。これが,お年寄りのパワーの復活につながった。お年寄りたちは,夜なべ仕事までして,衣装づくりに励んでくれた。衣装が完成し,子どもたちと仮設住宅を訪れ,衣装を着せてもらった時の子どもたちの表情,特にお年寄りたちの表情を忘れることができない。
坂元小との合同開催の秋の運動会は,賑やかに開催された。中浜小学校は,この運動会で子ども神楽の復活を宣言した。待ちに待った瞬間となった。神楽を舞う姿に勇気をもらい,山元町の多くの方が前を向いて動き出した。
中浜小が廃校となり坂元小に統合された現在も,「子ども神楽」は存続し,発展を遂げている。中浜神楽保存会と坂元神楽保存会の方々が,それぞれの所作の違い等を乗り越えて指導してくださっている。子どもたちの笑顔を取り戻すには,学校と地域がお互いを知り,仲良く協力することが不可欠だと改めて思った。