本物語
第73号 2022.7.20
命を守ることの大切さを語り続けて
小野寺 晟一郎
東日本大震災,あれから十一年余。気仙沼から現地の復興の進みについて,未曾有の大災害に被災された方々の並々ならぬ努力と,国内外からの支援によって,市内の様相も一変してまいりましたことをお知らせしたいと思います。
先ず,気仙沼の象徴とも言うべく安波山(あんばさん)からの,眼下の眺望が一変しました。麓の陣山地区に完成した震災慰霊公園,そして湾を横断する三陸自動車道の気仙沼湾横断橋・鼎(かなえ)大橋,また前方には,昭和の時代からの悲願だった大島への夢の懸け橋・鶴亀大橋がそびえ,横断橋を行き交う大小の車は,忙しそうに,北へ南へと走り去ります。気仙沼全体の眺望も様変わりしました。まるで瀬戸内にでも居るような錯覚をおぼえ,トラック野郎で走り廻った若い昔を思い出しています。
復興もかなりの速さで進み,特に市の主要産業の水産関係は,生鮮,加工共に,ようやく軌道に乗ったようにも見うけられます。鹿(しし)折(おり),本浜(もとはま)地区の加工場,それに魚市場を中心とした水産加工場地帯は新工場が建ち並んで活気をおびております。只,それでも一見良さそうに見える魚市場周辺ですが,内(ない)ノ(の)脇(わき)地区に目を移しますと住宅地に民家は少なく,草原が広がり野草の花が咲き競っています。この地に建物が建ち並ぶのはいつのことでしょうか。この様子を見ると,一般家庭の方々の生活は,なかなか思うようには回復してはいないのかも知れません。何しろ,ここ二年程は,コロナの感染症が蔓延,観光で訪れるお客様の足も途絶え,あらゆる業種に大変な時代が続いていますので,各方面,四苦八苦の状態かと思います。私が〝語り部〟として携わる「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」におきましても例外ではなく,来館者が大幅に減少しており,拍子抜けの状況です。それでも最近は学校関係団体様のお客様は少々回復の兆しが見えてきたようにも見えます。しかし私の場合は少人数のお客様が主体でして,以前のような稼働には程遠い状況が続いています。
そのような状況の中でも,私は従来通り,あらゆる災害について命を守ることの大切さを話し,避難の重要性を説き続けております。東日本大震災でも,私の周りでも多数の方が命を落としました。振り返ってみますと,避難場所の設定,避難道の選定等についても不備があったと思いますし,私が見た感じでは現在でもまだまだ完璧ではないように見うけられます。避難行動に際し車を捨てて歩いて逃げて下さいとの放送がありますが,子供や老人は歩いては安全な避難は不可能と思います。車輌の避難道,歩行者の避難道の整備も考え直さなければいけないと思います。昭和35年5月24日早朝に襲ったチリ地震津波のとき,私は気仙沼市旧魚市場側の桟橋上の気(き)帆(はん)船(せん)タクシーに勤務しており,当日は当直でした。地震警報と同時に先輩の指示で,潮見町に住んでいた同僚の救助を命ぜられて迎えに走り,その同僚が乗車して避難開始と同時に津波の追跡を受け,波と競走の状態で幸町から市民会館まで上り逃げ切りました。私が逃げ切れたのは,津波の規模も小さく,車輌の少ない時代で,早朝だったことが幸いし,渋滞が発生しなかったからです。しかし,気仙沼では人的被害はありませんでしたし,被害の少なかったこともあって次の災害を考えず,幸町から市民会館に上る大事な避難道路の整備を怠ったために,東日本大震災では幸町地区で渋滞が発生し,犠牲者を出したのです。この被災についても,チリ地震津波後に拡幅工事を怠った結果と誰が認識していたでしょうか。その拡幅工事は漸く一昨年完成しました。
前記でちょっと触れましたが,私は他の語り部諸氏と違って少人数の方と対面でお話し出来ますので,色々資料を差し上げて,上記のことを含めて被災についての様々な実態を詳しく説明させて頂いております。差し上げた資料は,お客様が帰宅した後にも御家族様や知人等にも説明出来ると好評を頂き,多くの謝礼のお便りも頂戴いたしております。その一部を紹介させていただきます。
「~テレビや新聞の報道だけでは分からなかった事実が実際に気仙沼の地に立つことにより理解を深めることが出来たことは、私どもにとって本当に勉強になりました。~また、気仙沼の方々の心により深く添えるような気持ちになったことは、私どもの人間的成長の糧となりました。~親戚や友人にいただいた資料を見せながら現地の様子を話しましたが、ともすれば、歳月の経過とともに薄らいでいく災害の恐ろしさを改めて呼び起させてくれました。~」「~東京に戻りまして、通勤の満員電車の中で「みなさん、気仙沼に行きましょう。自分の目で今を、あの時を確かめましょう。同じ日本国民として考えましょう」と、心の中で叫んでしまいました。大声は出せませんでしたが、〝気〟だけを発信しました。~」
私はこれらのお手紙を読み返しては,お客様方の震災に対する意識の高揚を感じております。
先ず,気仙沼の象徴とも言うべく安波山(あんばさん)からの,眼下の眺望が一変しました。麓の陣山地区に完成した震災慰霊公園,そして湾を横断する三陸自動車道の気仙沼湾横断橋・鼎(かなえ)大橋,また前方には,昭和の時代からの悲願だった大島への夢の懸け橋・鶴亀大橋がそびえ,横断橋を行き交う大小の車は,忙しそうに,北へ南へと走り去ります。気仙沼全体の眺望も様変わりしました。まるで瀬戸内にでも居るような錯覚をおぼえ,トラック野郎で走り廻った若い昔を思い出しています。
復興もかなりの速さで進み,特に市の主要産業の水産関係は,生鮮,加工共に,ようやく軌道に乗ったようにも見うけられます。鹿(しし)折(おり),本浜(もとはま)地区の加工場,それに魚市場を中心とした水産加工場地帯は新工場が建ち並んで活気をおびております。只,それでも一見良さそうに見える魚市場周辺ですが,内(ない)ノ(の)脇(わき)地区に目を移しますと住宅地に民家は少なく,草原が広がり野草の花が咲き競っています。この地に建物が建ち並ぶのはいつのことでしょうか。この様子を見ると,一般家庭の方々の生活は,なかなか思うようには回復してはいないのかも知れません。何しろ,ここ二年程は,コロナの感染症が蔓延,観光で訪れるお客様の足も途絶え,あらゆる業種に大変な時代が続いていますので,各方面,四苦八苦の状態かと思います。私が〝語り部〟として携わる「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」におきましても例外ではなく,来館者が大幅に減少しており,拍子抜けの状況です。それでも最近は学校関係団体様のお客様は少々回復の兆しが見えてきたようにも見えます。しかし私の場合は少人数のお客様が主体でして,以前のような稼働には程遠い状況が続いています。
そのような状況の中でも,私は従来通り,あらゆる災害について命を守ることの大切さを話し,避難の重要性を説き続けております。東日本大震災でも,私の周りでも多数の方が命を落としました。振り返ってみますと,避難場所の設定,避難道の選定等についても不備があったと思いますし,私が見た感じでは現在でもまだまだ完璧ではないように見うけられます。避難行動に際し車を捨てて歩いて逃げて下さいとの放送がありますが,子供や老人は歩いては安全な避難は不可能と思います。車輌の避難道,歩行者の避難道の整備も考え直さなければいけないと思います。昭和35年5月24日早朝に襲ったチリ地震津波のとき,私は気仙沼市旧魚市場側の桟橋上の気(き)帆(はん)船(せん)タクシーに勤務しており,当日は当直でした。地震警報と同時に先輩の指示で,潮見町に住んでいた同僚の救助を命ぜられて迎えに走り,その同僚が乗車して避難開始と同時に津波の追跡を受け,波と競走の状態で幸町から市民会館まで上り逃げ切りました。私が逃げ切れたのは,津波の規模も小さく,車輌の少ない時代で,早朝だったことが幸いし,渋滞が発生しなかったからです。しかし,気仙沼では人的被害はありませんでしたし,被害の少なかったこともあって次の災害を考えず,幸町から市民会館に上る大事な避難道路の整備を怠ったために,東日本大震災では幸町地区で渋滞が発生し,犠牲者を出したのです。この被災についても,チリ地震津波後に拡幅工事を怠った結果と誰が認識していたでしょうか。その拡幅工事は漸く一昨年完成しました。
前記でちょっと触れましたが,私は他の語り部諸氏と違って少人数の方と対面でお話し出来ますので,色々資料を差し上げて,上記のことを含めて被災についての様々な実態を詳しく説明させて頂いております。差し上げた資料は,お客様が帰宅した後にも御家族様や知人等にも説明出来ると好評を頂き,多くの謝礼のお便りも頂戴いたしております。その一部を紹介させていただきます。
「~テレビや新聞の報道だけでは分からなかった事実が実際に気仙沼の地に立つことにより理解を深めることが出来たことは、私どもにとって本当に勉強になりました。~また、気仙沼の方々の心により深く添えるような気持ちになったことは、私どもの人間的成長の糧となりました。~親戚や友人にいただいた資料を見せながら現地の様子を話しましたが、ともすれば、歳月の経過とともに薄らいでいく災害の恐ろしさを改めて呼び起させてくれました。~」「~東京に戻りまして、通勤の満員電車の中で「みなさん、気仙沼に行きましょう。自分の目で今を、あの時を確かめましょう。同じ日本国民として考えましょう」と、心の中で叫んでしまいました。大声は出せませんでしたが、〝気〟だけを発信しました。~」
私はこれらのお手紙を読み返しては,お客様方の震災に対する意識の高揚を感じております。