本物語
第74号 2022.12.10
銅像めぐり―赤い靴―
白川 治子
ホームページ「HARUKOの部屋」(http://cosmos.moo.jp/)を開設してから20年が過ぎた。スマホでも見られるので,覗いてくださると嬉しい。
「HARUKOの部屋」は,海外の旅,母が語る20世紀,日本史ウォーキング,独り言など自分でもあきれるぐらい膨大なものだが,「行き当たりばったり銅像めぐり」は、日本や外国の銅像を100体以上取り上げた。反響が多かったひとつ「赤い靴はいてた女の子像」を,ホームページとは別バージョンで書いてみたい。
この像は横浜港を一望できる山下公園に建っている。横浜では「赤い靴」は観光資源の目玉だ。名所を巡る赤いバスは「あかいくつ」。横浜銘菓の名にもなっているし,デザイン化された赤い靴グッズもたくさん売っている。野口雨情作詞・本居長世作曲の童謡が流行ったおかげである。作詞は大正10年,作曲は大正11年。この童謡が世に出てから100年になるのに,今でも歌える人はたくさんいるに違いない。
赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった
横浜の波止場から船に乗って 異人さんにつれられて 行っちゃった
今では青い目になっちゃって 異人さんのお国に いるんだろう
赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび 考える
この童謡は好きになれなかった。「つれられて」という言葉から,無理やり連れ去られた光景が浮かんできて,女の子がかわいそうで悲しくなったものだ。異人さんが,人さらいのように思えた。
ところが,女の子は横浜の波止場に来ることも船に乗ることも異人さんの国で暮らすこともなかったのである。この子の名前は岩崎きみ。母の岩崎かよは,明治35年に清水(今は静岡市)で出産したが,結婚していなかったので世間の冷たい目に遭い,それに耐えられず北海道に渡った。その地で出会った鈴木志郎と結婚し,開拓のために真狩村(いまは留寿都町)に入植。
そんな時アメリカ人宣教師夫妻が養女を探していると聞き,彼らに託すことにした。
過酷な開拓村で過ごすより幸せになるだろうとの親心だった。そこから先が悲し過ぎ
る。宣教師が帰国する寸前に「きみちゃん」は肺結核にかかり,麻布にあるメソジスト孤児院に預けられた。結局,明治44年に孤児院で亡くなった。9歳。船旅に耐えられないだろうの宣教師の親心だったのかもしれないが,いったんは養女にした子を孤児院に置き去りにした身勝手な行為は許せない。哀れさが増すばかりだ。
鈴木夫妻は開拓に失敗し,志郎は札幌の北鳴新聞社に職を得た。その時の同僚が野口雨情である。雨情に「きみちゃん」の話をしたところ,雨情は異人さんにもらわれた女の子に心を動かされたらしい。
そんな経緯で「赤い靴はいてた女の子」の童謡が生まれた。母のかよも鈴木志郎も野口雨情も本居長世も嘘をついていたのではない。「きみちゃん」はアメリカに渡ったものと信じていたのである。
真実が分かったのは割と最近だ。昭和48年に,鈴木夫妻の娘・岡そのが,「赤い靴はいてた女の子は私の姉です。アメリカで暮らしている姉の消息を知りたい」と北海道新聞に投書した。その依頼を受けた北海道テレビの記者・菊地寛が追跡調査をして,きみちゃんがアメリカに行かず孤児院で死んだことが判明した。昭和54年にはドキュメンタリー番組が作られ,翌年には本も出版された。
赤い靴関連の銅像は,横浜以外にも6ヵ所ある。山下公園のものが一番古く昭和54年建立。日本平(生まれ故郷)の「母子像」は昭和61年,麻布の「きみちゃん像」は平成元年,北海道の留寿都町の「母思像」は平成3年,小樽の「赤い靴親子の像」は平成19年,函館の「赤い靴少女像」は平成21年,青森県鰺ヶ沢の「親子3人像」は平成23年。
山下公園の像建立は本の出版と同時期である。真実が分かっても取り外しは出来なかったろうし,実名をあげている像ではない。野口雨情の童謡に思いをはせ,メルヘ
ンの世界に浸るのは自由だ。
他の6体は真相が分かってからの建立。名もない母子像がこれほどもてはやされるのは,観光客誘致が目的だろう。孤児院があった麻布や開拓村だった留寿都にある像はまだいい。解せないのは鈴木志郎の出身地鰺ヶ沢と日本平だ。日本平は,母子を追い出した地ではないか。恥ずかしくないのだろうか。
「HARUKOの部屋」は,海外の旅,母が語る20世紀,日本史ウォーキング,独り言など自分でもあきれるぐらい膨大なものだが,「行き当たりばったり銅像めぐり」は、日本や外国の銅像を100体以上取り上げた。反響が多かったひとつ「赤い靴はいてた女の子像」を,ホームページとは別バージョンで書いてみたい。
この像は横浜港を一望できる山下公園に建っている。横浜では「赤い靴」は観光資源の目玉だ。名所を巡る赤いバスは「あかいくつ」。横浜銘菓の名にもなっているし,デザイン化された赤い靴グッズもたくさん売っている。野口雨情作詞・本居長世作曲の童謡が流行ったおかげである。作詞は大正10年,作曲は大正11年。この童謡が世に出てから100年になるのに,今でも歌える人はたくさんいるに違いない。
赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった
横浜の波止場から船に乗って 異人さんにつれられて 行っちゃった
今では青い目になっちゃって 異人さんのお国に いるんだろう
赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび 考える
この童謡は好きになれなかった。「つれられて」という言葉から,無理やり連れ去られた光景が浮かんできて,女の子がかわいそうで悲しくなったものだ。異人さんが,人さらいのように思えた。
ところが,女の子は横浜の波止場に来ることも船に乗ることも異人さんの国で暮らすこともなかったのである。この子の名前は岩崎きみ。母の岩崎かよは,明治35年に清水(今は静岡市)で出産したが,結婚していなかったので世間の冷たい目に遭い,それに耐えられず北海道に渡った。その地で出会った鈴木志郎と結婚し,開拓のために真狩村(いまは留寿都町)に入植。
そんな時アメリカ人宣教師夫妻が養女を探していると聞き,彼らに託すことにした。
過酷な開拓村で過ごすより幸せになるだろうとの親心だった。そこから先が悲し過ぎ
る。宣教師が帰国する寸前に「きみちゃん」は肺結核にかかり,麻布にあるメソジスト孤児院に預けられた。結局,明治44年に孤児院で亡くなった。9歳。船旅に耐えられないだろうの宣教師の親心だったのかもしれないが,いったんは養女にした子を孤児院に置き去りにした身勝手な行為は許せない。哀れさが増すばかりだ。
鈴木夫妻は開拓に失敗し,志郎は札幌の北鳴新聞社に職を得た。その時の同僚が野口雨情である。雨情に「きみちゃん」の話をしたところ,雨情は異人さんにもらわれた女の子に心を動かされたらしい。
そんな経緯で「赤い靴はいてた女の子」の童謡が生まれた。母のかよも鈴木志郎も野口雨情も本居長世も嘘をついていたのではない。「きみちゃん」はアメリカに渡ったものと信じていたのである。
真実が分かったのは割と最近だ。昭和48年に,鈴木夫妻の娘・岡そのが,「赤い靴はいてた女の子は私の姉です。アメリカで暮らしている姉の消息を知りたい」と北海道新聞に投書した。その依頼を受けた北海道テレビの記者・菊地寛が追跡調査をして,きみちゃんがアメリカに行かず孤児院で死んだことが判明した。昭和54年にはドキュメンタリー番組が作られ,翌年には本も出版された。
赤い靴関連の銅像は,横浜以外にも6ヵ所ある。山下公園のものが一番古く昭和54年建立。日本平(生まれ故郷)の「母子像」は昭和61年,麻布の「きみちゃん像」は平成元年,北海道の留寿都町の「母思像」は平成3年,小樽の「赤い靴親子の像」は平成19年,函館の「赤い靴少女像」は平成21年,青森県鰺ヶ沢の「親子3人像」は平成23年。
山下公園の像建立は本の出版と同時期である。真実が分かっても取り外しは出来なかったろうし,実名をあげている像ではない。野口雨情の童謡に思いをはせ,メルヘ
ンの世界に浸るのは自由だ。
他の6体は真相が分かってからの建立。名もない母子像がこれほどもてはやされるのは,観光客誘致が目的だろう。孤児院があった麻布や開拓村だった留寿都にある像はまだいい。解せないのは鈴木志郎の出身地鰺ヶ沢と日本平だ。日本平は,母子を追い出した地ではないか。恥ずかしくないのだろうか。