本物語
第75号 2023.3.11
銅像めぐり―忠犬ハチ公―
白川 治子
渋谷駅前の忠犬ハチ公像の話を聞いて欲しい。数ある銅像の中で,この像の人気度や知名度は1~2を争う。「ハチ公前で」が待ち合わせの合い言葉だ。かつて,ヘレンケラーやリチャード・ギアも訪れたこともあり,何度か映画やドラマにもなっている。
飼い主の上野博士は,東京大学農学部の教授。すでに2頭の犬を飼っていたが,さらに秋田犬の子犬が欲しいと思った。1924(大正13)年1月,生後2か月の秋田犬が,秋田県の大館駅から米俵にいれられて上野駅に到着した。付き添ってきた人もいるから,お犬さまの輿入れみたいなものだ。当時はペットショップなどなかったのだろう。
上野博士の自宅は,東京府豊多摩郡渋谷町(今の渋谷区松濤)。当時の東大農学部は本郷ではなく駒場にあったので,自宅と職場は近い。歩いても行ける距離だ。渋谷は出張などで使うことはあっても,毎日使っていた駅ではない。
ハチの運命が一変するのは翌年1925年の5月。博士は大学の会議中に脳溢血で倒れ,53歳の若さで急逝した。その後ハチは日本橋や浅草など数軒をたらいまわしにされ,最後は上野宅に出入りしていた代々木の植木職人に預けられた。ハチが渋谷に近い植木職人の家に落ち着いたのは,博士の死後2年も経ったころだ。
ハチの姿が渋谷駅で見られるようになったのは,植木職人の家に来てからだという。その前にいた日本橋や浅草からでは遠すぎる。「渋谷駅周辺の屋台の残り物が目当てで来ていた」という憶測も成り立つ。私の憶測ではなく,それに類した記事はいくつも目にしているし,動物の専門家からも直接聞いている。もっとも植木職人はハチを粗末には扱わなかったらしいので,残り物目当てという話もすぐには納得できない。でも博士急逝後の一連の動きをみると,ハチが博士の帰りを何年も待ち続けた話は,ウソくさい。
渋谷駅をぶらついていた頃のハチは,通行人にはむしろ嫌われ犬だった。ところが,1932年に「いとしや老犬物語」の記事が新聞に出ると,軍国主義の風潮とあいまって,主人に忠義をつくす忠犬が注目を集めた。1934年にはハチ公の銅像が設置された。なんと! 除幕式にはハチも参列したというから驚く。忠犬ハチ公を見習えとばかり,修身の教科書にも採用された。ハチが死んだのは翌年の1935年。渋谷駅で盛大な告別式が行われ,博士の妻や植木職人も出席した。16人の僧侶による読経,花輪,電報,香典が多数寄せられたそうだ。写真が残っているので作り話ではない。
軍国主義の精神を具現した像にもかかわらず,太平洋戦争時に金属供出で回収されてしまった。戦後になって,外国人からの問い合わせが多くなり,1948年に2代目の像が作られた。初代銅像作家の安藤照が亡くなっていたので,長男の安藤士が制作した。今,私たちが見ている像は,1948年作のもの。
1989年に駅前広場の改修に伴い北向きが東向きに変えられた。渋谷駅を長年利用している私は,北向きの頃から知っている。当時の写真がないものかと探したが,首都圏に住む者にとってハチ公は写真に収めるほどの銅像ではないので,撮っていない。
忠犬ハチ公と上野博士の物語はまだ続く。ハチの剥製があると聞き,上野の科学博物館まで出向いた。その時にガイドが2016年5月20日の新聞切り抜きを見せてくれた。ハチの記事が大きく載っている。それによると,上野博士と奥様八重子さんは,故あって正式な夫婦ではなかった。そのため,博士が亡くなったあと八重子夫人は松濤の家を出なければならなかった。博士の死後にハチがたらい回しされた理由がこれで分かった。奥様が飼えばいいのにと不思議に思っていたが,疑問が解けた。
八重子夫人は1961年まで存命だったが、青山霊園にある博士と同じ墓には入れなかった。「ハチにとって博士が父なら八重子さんは母」と考える教え子たちの尽力で,合祀が可能になった。夫人の死から50年以上も後のことだ。ハチの墓は博士の隣にある。犬が一緒なのに奥様が合祀されていないなど,この新聞記事を読むまで思いもよらなかった。
渋谷駅前と青山霊園以外の見どころは,東大農学部キャンパスと上野の科学博物館。東大農学部にはハチとじゃれあっている上野博士像がある。隣接している博物館にはハチの内臓が展示されている。科学博物館にはハチの剝製がある。東京以外ではハチの生まれ故郷秋田県大館と,上野博士のふるさと津市(近鉄久居駅)に銅像が建っている。
飼い主の上野博士は,東京大学農学部の教授。すでに2頭の犬を飼っていたが,さらに秋田犬の子犬が欲しいと思った。1924(大正13)年1月,生後2か月の秋田犬が,秋田県の大館駅から米俵にいれられて上野駅に到着した。付き添ってきた人もいるから,お犬さまの輿入れみたいなものだ。当時はペットショップなどなかったのだろう。
上野博士の自宅は,東京府豊多摩郡渋谷町(今の渋谷区松濤)。当時の東大農学部は本郷ではなく駒場にあったので,自宅と職場は近い。歩いても行ける距離だ。渋谷は出張などで使うことはあっても,毎日使っていた駅ではない。
ハチの運命が一変するのは翌年1925年の5月。博士は大学の会議中に脳溢血で倒れ,53歳の若さで急逝した。その後ハチは日本橋や浅草など数軒をたらいまわしにされ,最後は上野宅に出入りしていた代々木の植木職人に預けられた。ハチが渋谷に近い植木職人の家に落ち着いたのは,博士の死後2年も経ったころだ。
ハチの姿が渋谷駅で見られるようになったのは,植木職人の家に来てからだという。その前にいた日本橋や浅草からでは遠すぎる。「渋谷駅周辺の屋台の残り物が目当てで来ていた」という憶測も成り立つ。私の憶測ではなく,それに類した記事はいくつも目にしているし,動物の専門家からも直接聞いている。もっとも植木職人はハチを粗末には扱わなかったらしいので,残り物目当てという話もすぐには納得できない。でも博士急逝後の一連の動きをみると,ハチが博士の帰りを何年も待ち続けた話は,ウソくさい。
渋谷駅をぶらついていた頃のハチは,通行人にはむしろ嫌われ犬だった。ところが,1932年に「いとしや老犬物語」の記事が新聞に出ると,軍国主義の風潮とあいまって,主人に忠義をつくす忠犬が注目を集めた。1934年にはハチ公の銅像が設置された。なんと! 除幕式にはハチも参列したというから驚く。忠犬ハチ公を見習えとばかり,修身の教科書にも採用された。ハチが死んだのは翌年の1935年。渋谷駅で盛大な告別式が行われ,博士の妻や植木職人も出席した。16人の僧侶による読経,花輪,電報,香典が多数寄せられたそうだ。写真が残っているので作り話ではない。
軍国主義の精神を具現した像にもかかわらず,太平洋戦争時に金属供出で回収されてしまった。戦後になって,外国人からの問い合わせが多くなり,1948年に2代目の像が作られた。初代銅像作家の安藤照が亡くなっていたので,長男の安藤士が制作した。今,私たちが見ている像は,1948年作のもの。
1989年に駅前広場の改修に伴い北向きが東向きに変えられた。渋谷駅を長年利用している私は,北向きの頃から知っている。当時の写真がないものかと探したが,首都圏に住む者にとってハチ公は写真に収めるほどの銅像ではないので,撮っていない。
忠犬ハチ公と上野博士の物語はまだ続く。ハチの剥製があると聞き,上野の科学博物館まで出向いた。その時にガイドが2016年5月20日の新聞切り抜きを見せてくれた。ハチの記事が大きく載っている。それによると,上野博士と奥様八重子さんは,故あって正式な夫婦ではなかった。そのため,博士が亡くなったあと八重子夫人は松濤の家を出なければならなかった。博士の死後にハチがたらい回しされた理由がこれで分かった。奥様が飼えばいいのにと不思議に思っていたが,疑問が解けた。
八重子夫人は1961年まで存命だったが、青山霊園にある博士と同じ墓には入れなかった。「ハチにとって博士が父なら八重子さんは母」と考える教え子たちの尽力で,合祀が可能になった。夫人の死から50年以上も後のことだ。ハチの墓は博士の隣にある。犬が一緒なのに奥様が合祀されていないなど,この新聞記事を読むまで思いもよらなかった。
渋谷駅前と青山霊園以外の見どころは,東大農学部キャンパスと上野の科学博物館。東大農学部にはハチとじゃれあっている上野博士像がある。隣接している博物館にはハチの内臓が展示されている。科学博物館にはハチの剝製がある。東京以外ではハチの生まれ故郷秋田県大館と,上野博士のふるさと津市(近鉄久居駅)に銅像が建っている。