本物語
第75号 2023.3.11
戦中戦後,生き残った老女のひとり言(その3)
鈴木 雅子
とりあえず初めは間借り生活だったが,しばらくして県営のアパートが建築され始め,そこに入居できた。出来たばかりの県営アパートは当然ながらガスも水道もあって,便利さに本当(・・)に(・)本当(・・)に(・)嬉しかった。ちょうどスーパーマーケットというのも出来たばかりの時代だったので,それも嬉しく,もっと歩く,もっと歩くと言う長男の手を引き,乳母車に甲府で生まれた長女を乗せて,散歩かたがた町中(まちなか)まで相当の距離を買い物に行ったものだった。時には逆方向の湯村温泉の方までこれも相当の距離を歩き,ヒバリの声を聞きながら田んぼのそばで,前を通る中央本線の汽車を眺めたりして,持ってきたお八つを子供と一緒に食べたり,あの頃が一番心も落ち着いていられた時だったかもしれない。子供達が健康に育ったのは,小さい時からよく歩いて足が丈夫なおかげだろう。それから最初の頃お手伝いに来てもらっていた小母さんに甲府のほうとう(・・・・)という食べ物を教わった事も書き残しておかなくては。今は東京のスーパーでもほうとうが買えるが,あの頃はまだ甲州の郷土食で,東京では賣っていなかったものだ。それともう一つ,甲府の人は名産の葡萄を「お(・)ぶどう」と「お」をつけて言っていたこともつけ加えておこう。
長男が幼稚園を終え,小学校入学を間近にした時,私は国立(くにたち)移転を決めた。と言うのはY大学には附属小学校があり,大学の先生の子供は大体が附属小に進むので,そういう何か特別な環境が私は厭だったのである。誰でもが行く普通の学校で普通に過ごさせたかった。ちょうど,以前父が人に勧められて買った国立(くにたち)の土地に弟が家を建てて住んでいたので,その後ろの土地を借りることにした。国立(くにたち)は文教地区でもあるし,夫の実家に行くのも勿論甲府よりずっと近いしと思って。いよいよ引っ越す時,いつも揚げやお豆腐を買っていたお店の小母さんが涙ぐんで別れを惜しんでくれた。以前小母さんに前掛けを縫ってあげたりして親しくしていたのだ。後ろ髪を引かれる思いであった。懐かしい甲府。いい所だった。本当によい思い出をありがとう。
さて国立(くにたち)の小学校であるが,期待に反して甲府の小学校にはあったプールも無く,給食も未だ無いと知り,驚いた。しかし校長先生が,育てた鈴虫を希望者に分けて下さり,それが夜に澄んだ声をひびかせ,心が洗われるようだった,という思い出もあり,すばらしい先生方がおられたことをありがたく思ったことである。入学が迫ってからの引っ越しで,あわてて買いに行った立川のデパートに一つだけ売れ残っていたランドセルを買うことが出来てホッとした。夫の叔母さんが,いらないからと辞退したのに買ってくれた昔ながらのつばの付いた学帽は,そんな帽子をかぶる子は一人もいなくて(申し訳ないが)いつの間にか無くなってしまった。
幼稚園入園を控えた長女は,ちょうど近くにキリスト教の幼稚園があって(私はクリスチャンではないが,女学校も女子大もミッションスクールだったので違和感なく)小さいお人形小屋のようなお家が庭にあるのが気に入り,たまたま女子大の恩師が近くにお住まいだったので紹介状を書いて頂き入園することができた。よい園で後に生まれた次男もそこにお世話になり,ありがたいことであった。その頃は小学校の高学年になった長男が,時々は自転車で迎えにも行ってくれて,おかげで助かったものだった。
その後も子供達はそれぞれ自分のやりたいことを目ざし,それぞれが高校も大学も自分で選んで進んで行っており,親としても成長することができたと思う。そこで私も大学で目指した擬音語・擬容語の研究を,また少しずつ続けるように心がけ,机に向かう余裕も生まれたかと思ったが,長い空白でとてもみんなに伍してゆくのは難しい。それでもまあとにかくやれることはやってゆこうと考えた。しかし追いつくだけでも大変なのだ。これはもう方向転換して異なる角度から別の山頂を目指した方がよさそうだし,年寄りが思いついたことを,とりとめもなく書きちらす随想でも書くことにしようか。~そんな結論に達して,ふと立ち止まってみたら,何と,どんぐりの背くらべだからと‶どんぐり会″と名づけていた仲間はみなあちらに逝ってしまって,大正生まれは一昨年までにいなくなり,もう一人残っていた昭和生まれが去年去ってゆき,一番ぼんやり者だった私一人だけがこちら側にまだ残ってしまっているのに気がついた。
今年私は95歳になった。みんなに支えられて生かされていると実感して,今は感謝する日々を過ごしている。三人の子供たち,みんなありがとう。そしてその時々に沢山お世話になり,影響を受けた多くの人々や出来事に,そして何度も拙い文章を載せて下さった三九出版様にも心から感謝し,お礼を言いたいと思います。ありがとうございました。
長男が幼稚園を終え,小学校入学を間近にした時,私は国立(くにたち)移転を決めた。と言うのはY大学には附属小学校があり,大学の先生の子供は大体が附属小に進むので,そういう何か特別な環境が私は厭だったのである。誰でもが行く普通の学校で普通に過ごさせたかった。ちょうど,以前父が人に勧められて買った国立(くにたち)の土地に弟が家を建てて住んでいたので,その後ろの土地を借りることにした。国立(くにたち)は文教地区でもあるし,夫の実家に行くのも勿論甲府よりずっと近いしと思って。いよいよ引っ越す時,いつも揚げやお豆腐を買っていたお店の小母さんが涙ぐんで別れを惜しんでくれた。以前小母さんに前掛けを縫ってあげたりして親しくしていたのだ。後ろ髪を引かれる思いであった。懐かしい甲府。いい所だった。本当によい思い出をありがとう。
さて国立(くにたち)の小学校であるが,期待に反して甲府の小学校にはあったプールも無く,給食も未だ無いと知り,驚いた。しかし校長先生が,育てた鈴虫を希望者に分けて下さり,それが夜に澄んだ声をひびかせ,心が洗われるようだった,という思い出もあり,すばらしい先生方がおられたことをありがたく思ったことである。入学が迫ってからの引っ越しで,あわてて買いに行った立川のデパートに一つだけ売れ残っていたランドセルを買うことが出来てホッとした。夫の叔母さんが,いらないからと辞退したのに買ってくれた昔ながらのつばの付いた学帽は,そんな帽子をかぶる子は一人もいなくて(申し訳ないが)いつの間にか無くなってしまった。
幼稚園入園を控えた長女は,ちょうど近くにキリスト教の幼稚園があって(私はクリスチャンではないが,女学校も女子大もミッションスクールだったので違和感なく)小さいお人形小屋のようなお家が庭にあるのが気に入り,たまたま女子大の恩師が近くにお住まいだったので紹介状を書いて頂き入園することができた。よい園で後に生まれた次男もそこにお世話になり,ありがたいことであった。その頃は小学校の高学年になった長男が,時々は自転車で迎えにも行ってくれて,おかげで助かったものだった。
その後も子供達はそれぞれ自分のやりたいことを目ざし,それぞれが高校も大学も自分で選んで進んで行っており,親としても成長することができたと思う。そこで私も大学で目指した擬音語・擬容語の研究を,また少しずつ続けるように心がけ,机に向かう余裕も生まれたかと思ったが,長い空白でとてもみんなに伍してゆくのは難しい。それでもまあとにかくやれることはやってゆこうと考えた。しかし追いつくだけでも大変なのだ。これはもう方向転換して異なる角度から別の山頂を目指した方がよさそうだし,年寄りが思いついたことを,とりとめもなく書きちらす随想でも書くことにしようか。~そんな結論に達して,ふと立ち止まってみたら,何と,どんぐりの背くらべだからと‶どんぐり会″と名づけていた仲間はみなあちらに逝ってしまって,大正生まれは一昨年までにいなくなり,もう一人残っていた昭和生まれが去年去ってゆき,一番ぼんやり者だった私一人だけがこちら側にまだ残ってしまっているのに気がついた。
今年私は95歳になった。みんなに支えられて生かされていると実感して,今は感謝する日々を過ごしている。三人の子供たち,みんなありがとう。そしてその時々に沢山お世話になり,影響を受けた多くの人々や出来事に,そして何度も拙い文章を載せて下さった三九出版様にも心から感謝し,お礼を言いたいと思います。ありがとうございました。