コンテンツへスキップ

本物語

一覧へ戻る

第75号 2023.3.11

宇治の文学碑を歩く( その8)

岡本 崇

 堺市から来られる坂東氏とは11時頃に黄檗(おうばく)駅で会おうと約束をして,JR木津駅を10時半頃に出発した。木津駅からは,私の好きな木津城址と給水塔がよく見えた。   
 学生時代は和歌山線五条駅から乗れる東京行き夜行列車でこの辺りを通過したし,帰省する時は,早朝時にこの駅を通過したが今は景色が変わっている。私が幼少期の4年間過ごしたのは今の大東市だが,そちら方面から来る電車を片町線(片町駅から木津駅迄の開通は明治31年)と云った。但し,片町駅が無くなり京橋駅迄となったので,昭和63年からは「JR学研都市線」と呼ばれるように変わった。
 坂東氏とは宇治駅でばったり出会って黄檗駅へ。そこから京都府宇治市の「黄檗山萬福寺」へ行く。萬福寺の総門を入ると突き当りに菊舎の句碑があった。       

●山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた  菊舎
 (中国の情緒あふれる萬福寺の)山門を出ると,ここが日本であることに気づいた。(宇治の)茶摘み歌が聞こえることだ。
 一字庵菊舎『1753-1826 下関市長府田(た)耕(すき)村(そん)の俳人。24歳で寡婦となり諸国を旅する』が,京都から吉野探勝に向かう時(1790年,38歳)に立ち寄り作った句。私が古文書教室で学んでいる三浦樗良(伊勢の俳人)は1780年に52歳で亡くなっているから興味深い。開山の隠元以来,菊舎訪問の直前の1785年迄,中国僧が務めていた。萬福寺(今の3倍の敷地に千人を超える僧が修行していた)の前から宇治川畔まで茶畑が続いていたようだ。天誅組の変は1863年に発生したから,その73年前に来ている。菊舎は田耕村出身だが,西吉野の我が家でも宿泊されたという天誅組主将中山忠光卿は田耕村で暗殺されている。女性でありながら,芭蕉が旅した「奥の細道」の逆コースの旅に出たのは1781年,28歳の時だと云う。
 「小野村小はた(木幡)の里、少将・小町の旧跡など多し。⇒黄檗山のうちを拝し巡り、誠に唐土の心地し侍れば、⇒それより三室戸寺に詣、…喜撰山を眺め(城陽市に行き)…二里ばかり行き、⇒井手の玉水あり⇒木津川市山城町綺田で宿泊⇒奈良市へ行く。」と書かれているから,菊舎は木津川市でも宿泊していたようだ。
 坂東史朗氏は昭和36年4月に,日本レイヨン㈱(現在のユニチカ㈱)へ入社した。宇治市には日本レイヨン㈱の大規模な工場があった。そのために,新入社員は全員,萬福寺に1ケ月間住み込みで禅研修も受けたらしい。朝夕ここで食事をして座禅をし,昼は宇治工場で勉強したという。その時は,テレビの取材も受けたとのこと。
 60年以上も前の話なのでどの場所で寝起きしたかの記憶が無いと云うが,当時の写
真を持参されていた。受付の方に写真を見せると,開山堂の前の写真だから隣にある松隠堂で寝泊まりしたのであろうといわれた。天王殿の横に植えられている隠元豆などを見物したりした後,大雄宝殿などの参拝を終えて,萬福寺総門を出た所に明恵上人(1173~1232 京都栂尾の高山寺を開いた僧)の歌碑があった。

●「栂山(とがやま)の尾上の茶の木分け植ゑて迹ぞ生ふべし駒の足影 明恵上人
 迹=[音]セキ(漢) シャク(呉) [訓]あと〈セキ〉足あと。あと。     
 「行迹・事迹」[補説]「跡」と通用。
 明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂(とが)尾(のお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。
 鎌倉時代の初め頃,宇治の里人たちが茶の種の撒き方がわからず困っていたら,通りかかった栂尾の明恵上人が馬を畑に乗り入れ,その跡に種をまくように教えたと伝えられている。鎌倉時代,栄西禅師が中国から茶の実を持ち帰り,明恵が茶園を開いたのが最初とも云われる。

 萬福寺門前に佇む白雲庵は普茶(ふちゃ)料理(精進料理)の老舗。二汁六菜を基本とし胡麻豆腐や吉野煮,季節の菜味,味付天麩羅等が調理されて出される。コロナの影響もあり,飛び込みでもゆったりと貸し切りの状態で利用できたので,久しぶりに,3時間以上も長居をして,「萬福寺」を眺めながら楽しんだ。
 帰路は二人でJR黄檗駅からJRの奈良駅まで行き,奈良市内を少し散歩してから近鉄奈良駅へ行って,近鉄電車で各々帰路についた。          (続く)
一覧へ戻る