本物語
第76号 2023.8.25
震災を乗り越えて とは? 続編4
井上 剛
前号続編3では,中浜小学校の閉校式における式辞を掲載させていただきました。未曾有の災害に見舞われた方々に対する私なりの精いっぱいのエールでした。今号では,未来を担う若者に託す思いと,私の身の回りに起きたことも敢えて掲載させていただきながら,被災しながらも被災者・運営者を区別することなく乗り越えて今を生きている人たちと共に,これからも頑張っていくことをお伝えしたいと思います。
震災から12年が経過した。中浜小学校の閉校からは10年が経過したことになる。この間,山元町の沿岸部は変貌を遂げてきた。農業法人による機械化された耕作地の整備や,大規模なイチゴハウスなどで復興の兆しが見えてきている。元常磐線の跡地には新しい県道が整備された。町内3箇所に集約された新市街地は新築の家屋が建ち並んだ。この変貌ぶりに震災前の面影が消えてしまったと感じる人たちも多いと思う。その中で震災遺構中浜小学校の存在が,かつての面影を知る人たちの心のランドマークとなっていることは,多くの方が認めるところである。
私たちは,当時の中浜小の子どもたちが卒業後の長い人生を健やかに育ってほしいという願いを持っている。しかし,通常では小学校の教師と児童たちは卒業後に交流を図ることは稀である。あれだけ大きな経験をさせてしまった子どもたちのことは,卒業後も適度に寄り添い,何事かあればすぐに相談できる距離感を保ちながら見守りたい。そして実行してきた。心のケアはカウンセリングだけではない。共に寄り添うことが大事だと思ってきた。現在まで続けている心のケアの活動をいくつか紹介する。一つ目は震災遺構中浜小の花壇整備だ。当時の屋上を経験した子どもたちや,保護者・教師が集まり年2回の花壇整備をする。作業はきっかけであり,会うことがメインだ。それぞれの悩みや頑張りについて作業をしながら「おしゃべりする」ことでお互いの健闘を認め,次へのエネルギーを蓄える機会とした。今まで欠かさず継続していること自体が大事だ。これからも続けていく。継続は力なりだと思う。二つ目は成人式を祝うこと。人生の節目を共に祝うことはとても大事だ。震災直後に卒業式ができず,その年の夏休みに卒業証書を渡すことになった。遅れても正式に卒業証書を渡すことは大事だった。子どもたちの姿に,人生の節目を共に祝うことの大切さをこの時に痛感した。このことが成人式に寄り添うことにつながった。かつての子どもたちは,私たちの予想をはるかに超えて逞しく立派に成長している。人の役に立つ職業を選び社会に飛び立つ姿を見るたびに,お互いに助かって良かったと胸をなでおろしている。
ところで,私事は掲載すべきでないと考える方も多いと思う。しかし,当時の校長という立場と家族を思う父親の立場としての狭間で揺れ動いたことも事実だ。正直に伝えることは参考になると思う。したがって私の周りで起きたこともふれておきたい。5歳の冬に川に流された。あと5分の命だったと地元紙に掲載された。この時は当時の中学生が学生服のまま川に飛び込んで救助してくれた。命の恩人だ。今もご健在で年賀状をやり取りしている。この時に救ってもらった恩は,一生忘れない。この時つないだ命は,中浜小の屋上でも辛うじてつながった。二度あることは三度あると言われるが,三度目はごめん被りたい。私は強運の持ち主か?そうかもしれない。運も強くなければ屋上で命をつなぐことはできなかっただろう。自然の力には,敵わないと今も痛感する。屋上で津波をやり過ごした後で,家族のことはやはり心配だった。しかし海の上では,どうしようもない。一度だけメールがつながった。「大丈夫か?」家内から「こわい。」生きていると思った。家内から「早く帰ってきて」これには「無理」とだけ連絡できた。災害時に家族で一緒にいられることは稀だと思ったほうがいい。家族(妻と息子)は心配ではあったが,なかなか家に帰ることができなかった。ようやく帰宅することになった時は,親戚が二人を引き取ってくれた後だった。「お前は家族も守れないのか」という親戚からのきつい一言を今も忘れることができない。親戚は山元町で何が起きていたか知らなかったので無理はない。「しんどいなあ」と思いながら我慢した。避難所から初めて一時帰宅するとき「校長さん,帰って来るんだべね。」と声をかけられた。「もちろんすぐに戻りますよ」とは言ったものの,この言葉は痛かった。声をかけた人を責めるつもりは毛頭ない。その人も不安だった。みんな経験したことのない,とても大きな不安と困難を乗り越えてきた。
私の定年後の人生も,思い描いていた余生とは大きく異なっている。我ながら頑張っていると思う。これからも,前のめりになって進んでいきたいと思う。
これまで掲載させていただいた「震災を乗り越えて とは?」の続編は,ここで区切りをつけたいと思います。これまで私のつたない文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。
震災から12年が経過した。中浜小学校の閉校からは10年が経過したことになる。この間,山元町の沿岸部は変貌を遂げてきた。農業法人による機械化された耕作地の整備や,大規模なイチゴハウスなどで復興の兆しが見えてきている。元常磐線の跡地には新しい県道が整備された。町内3箇所に集約された新市街地は新築の家屋が建ち並んだ。この変貌ぶりに震災前の面影が消えてしまったと感じる人たちも多いと思う。その中で震災遺構中浜小学校の存在が,かつての面影を知る人たちの心のランドマークとなっていることは,多くの方が認めるところである。
私たちは,当時の中浜小の子どもたちが卒業後の長い人生を健やかに育ってほしいという願いを持っている。しかし,通常では小学校の教師と児童たちは卒業後に交流を図ることは稀である。あれだけ大きな経験をさせてしまった子どもたちのことは,卒業後も適度に寄り添い,何事かあればすぐに相談できる距離感を保ちながら見守りたい。そして実行してきた。心のケアはカウンセリングだけではない。共に寄り添うことが大事だと思ってきた。現在まで続けている心のケアの活動をいくつか紹介する。一つ目は震災遺構中浜小の花壇整備だ。当時の屋上を経験した子どもたちや,保護者・教師が集まり年2回の花壇整備をする。作業はきっかけであり,会うことがメインだ。それぞれの悩みや頑張りについて作業をしながら「おしゃべりする」ことでお互いの健闘を認め,次へのエネルギーを蓄える機会とした。今まで欠かさず継続していること自体が大事だ。これからも続けていく。継続は力なりだと思う。二つ目は成人式を祝うこと。人生の節目を共に祝うことはとても大事だ。震災直後に卒業式ができず,その年の夏休みに卒業証書を渡すことになった。遅れても正式に卒業証書を渡すことは大事だった。子どもたちの姿に,人生の節目を共に祝うことの大切さをこの時に痛感した。このことが成人式に寄り添うことにつながった。かつての子どもたちは,私たちの予想をはるかに超えて逞しく立派に成長している。人の役に立つ職業を選び社会に飛び立つ姿を見るたびに,お互いに助かって良かったと胸をなでおろしている。
ところで,私事は掲載すべきでないと考える方も多いと思う。しかし,当時の校長という立場と家族を思う父親の立場としての狭間で揺れ動いたことも事実だ。正直に伝えることは参考になると思う。したがって私の周りで起きたこともふれておきたい。5歳の冬に川に流された。あと5分の命だったと地元紙に掲載された。この時は当時の中学生が学生服のまま川に飛び込んで救助してくれた。命の恩人だ。今もご健在で年賀状をやり取りしている。この時に救ってもらった恩は,一生忘れない。この時つないだ命は,中浜小の屋上でも辛うじてつながった。二度あることは三度あると言われるが,三度目はごめん被りたい。私は強運の持ち主か?そうかもしれない。運も強くなければ屋上で命をつなぐことはできなかっただろう。自然の力には,敵わないと今も痛感する。屋上で津波をやり過ごした後で,家族のことはやはり心配だった。しかし海の上では,どうしようもない。一度だけメールがつながった。「大丈夫か?」家内から「こわい。」生きていると思った。家内から「早く帰ってきて」これには「無理」とだけ連絡できた。災害時に家族で一緒にいられることは稀だと思ったほうがいい。家族(妻と息子)は心配ではあったが,なかなか家に帰ることができなかった。ようやく帰宅することになった時は,親戚が二人を引き取ってくれた後だった。「お前は家族も守れないのか」という親戚からのきつい一言を今も忘れることができない。親戚は山元町で何が起きていたか知らなかったので無理はない。「しんどいなあ」と思いながら我慢した。避難所から初めて一時帰宅するとき「校長さん,帰って来るんだべね。」と声をかけられた。「もちろんすぐに戻りますよ」とは言ったものの,この言葉は痛かった。声をかけた人を責めるつもりは毛頭ない。その人も不安だった。みんな経験したことのない,とても大きな不安と困難を乗り越えてきた。
私の定年後の人生も,思い描いていた余生とは大きく異なっている。我ながら頑張っていると思う。これからも,前のめりになって進んでいきたいと思う。
これまで掲載させていただいた「震災を乗り越えて とは?」の続編は,ここで区切りをつけたいと思います。これまで私のつたない文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。