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本物語

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第76号 2023.8.25

銅像めぐり―西郷隆盛像―

白木 治子

 人気度で一,二を争う銅像は,前回とりあげた渋谷のハチ公像と上野の西郷隆盛像だ。「西郷さん」「西郷どん」「せごどん」と親しまれている。
 幕末から明治期に活躍して銅像が建っている人物は,坂本龍馬を筆頭にたくさんいるが,西郷隆盛銅像の人気はダントツである。「単なる田舎侍。大局的な考えなど持っていなかった」と言う学者も多いが,その真偽を追及する力もないし,分かったとしても「銅像めぐり」の主旨には合わない。
 なぜか彼を慕う人が今でもいることは確かだ。私は「敬天愛人(天を敬い人を愛する)」を飾ってある会社をいくつか知っている。鹿児島でなく横浜でのことだ。日本人が親しみを感じるのは分かるが,外国人にも人気がある。彼らは「絶対にここで写真を撮らなきゃ」と張り切っていて,撮り終わったあとは笑顔だ。各国のガイドブックに,どんな風に紹介されているのだろうか。
 隆盛が新政府で実権を握っていた明治初期は,廃藩置県,徴兵制度,学制発布,太陽暦採用などなど近代日本の礎が出来た時期と重なる。ところが,隆盛は1877年の西南の役で新政府に反旗をひるがえし,ふるさと薩摩の城山で自刃する。

 隆盛の銅像建立の機運は早くからあったが,なんといっても逆賊。その汚名が解かれたのは1889年。大日本帝国憲法発布の大赦で,正三位を与えられた。それがきっかけで建立が呼びかけられ,25000人以上が寄付をしたという。銅像は高村光雲作,犬のツンは後藤貞行作。
 西郷没後21年,1898年の除幕式には,総理大臣山縣有朋,勝海舟,大山巌,東郷平八郎ら800名が参加した。この像がある辺りは,今でも東京にしては広い場になっているが,800名が集まったとなると,さぞ密集していたことだろう。
 この除幕式の時には,糸子夫人は健在だった。「主人はこんな人ではなかった」「浴衣姿で散歩などしなかった」とあまり喜ばなかったらしい。散歩姿ではなく,軍服姿のかわりの苦肉の策として,腰に藁の兎罠をはさみ,兎狩りに出かける姿を考えたと記録にある。
 いずれにしても,明治の元勲にしては奇妙な恰好である。恩赦されたとはいえ,元反逆者の朝敵なので,皇居前広場に作る案は反対された。陸軍大将軍服の騎馬像も反対された。銅像めぐりをしていて面白いと思うのは,銅像が時の政府によって翻弄される様を知った時だ。その意味で西郷隆盛像は興味深い。
 新政府軍の江戸城攻撃は,1868年3月15日に予定されていた。その直前,勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ,江戸城を無血開城することになった。西郷ひとりの功績ではないが,江戸の町が焼かれずにすんだ。これも人気の理由かもしれない。両者の会談は薩摩藩の屋敷で開かれた。その出会いの記念碑がJR田町駅付近に建っている。

薩摩での隆盛人気は,鹿児島を訪問した人なら誰でも感じると思う。鹿児島空港(鹿児島市ではなく霧島市)に降りてまず目に入るのは,怖い顔をした西郷隆盛像だ。正式名称は「現代を見つめる西郷隆盛像」。古賀忠雄作。人物像としては日本最大の10.5m。京都に建立する予定で1976年に完成していたが,発注者が亡くなったために高岡市の倉庫に保存されたままになっていた。それを知った霧島市の有志が,1983年に今の場所に誘致したいわくつきの銅像だ。
 鹿児島市内にある有名な像は,自刃した城山を背に建っている。建立は1937年。作者は,初代忠犬ハチ公の作者の安藤照。東京では作れなかった軍服姿の銅像を,鹿児島で実現したことになる。東京から離れているとはいえ,お咎めがなかったらしい。他にも城山の近くや土産物屋や食堂の店先など,数えきれないほど西郷どんがいて,旅人を迎えてくれる。それに反し,同じ薩摩出身で明治維新の最大の功績者と言われる大久保利通は市内に一体建っているだけだ。それも1979年とごく最近の建立。大久保利通も暴漢に襲われて命を落とした。西郷隆盛が亡くなってから7か月後のことだ。同じように悲劇的な最期だったのにこの差はなんなのだろう。政府側にいた人物と政府に反旗を翻した人物との違いだけだろうか。

 九州新幹線の終点「鹿児島中央駅」から5分も歩くと下級武士の屋敷があった加治屋町。西郷,大久保,大山巌,東郷平八郎などの薩摩藩士の生誕地が固まっている。当時の面影はないが,「○○の跡」の案内板を見ながら維新の道を歩くだけでも楽しい。
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