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本物語

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第76号 2023.8.25

宇治の文学碑を歩く( その9)

岡本 崇

 2020年10月18日,木津駅を10時01分に乗って,宇治駅で乗り換え,JR木幡(こはた)駅に10時35分に着く。京阪は木幡(こわた)駅。義父が住む所は木幡(こはた)と呼ぶが,駅周辺の一部地名には「こばた」と読む所もあるのでややこしい。11時に堺市から来た坂東氏と合流して近くの法恩寺へ行く。

▼「木幡」=京都府南部の宇治市の一地区。「木幡」,「強田」,「巨幡」とも書く。宇治川の右岸に位置する。『古事記』や『万葉集』にもみえる古い地名で,背後に洪積層の黄檗(おうばく)丘陵が横たわり,これが茶園に利用され,茶業を営む者が多かった。現在は住宅化が急速に進んでいる。
語源は,木の生い茂った土地,古畑でやせた土地,小さい田,からきている。

▼「黄檗」=隣の黄檗駅前には,「黄檗山満福寺」がある。隠元(中国僧)が,中国にある寺名を付けた。アイヌ語の「シケレペ」は「きはだ(黄檗)」の意。黄檗は,ミカン科のキハダの内樹皮。鮮黄色できわめて苦く,僧侶が陀羅尼(長文の呪文)を誦するとき口に含んで眠気をさました。腸管蠕動を抑制し,抗菌作用があるベルベリンを含む。奈良県の吉野,大峰,高野山で製造される。健胃整腸剤の「陀羅尼助」はこの黄檗を主成分とし,センブリなどを煮つめたもの。

▼「浄妙寺」=京都府宇治市木幡(こはた)の,私の義父の居宅もある,木幡小学校一帯が寺址と推定される。浄妙寺は藤原北家の菩提寺。木幡寺とも呼ばれた。平安時代に,藤原北家の墓地は木幡の里に営まれた。当寺は,11世紀初頭,藤原道長がこの木幡墓地に造営した三昧堂に始まり,当初は他に大門,客殿,多宝塔などがあり,壮大をきわめた。鎌倉時代以降しだいに衰微し中世末に廃絶した。藤原定家の5代前が藤原道長。藤原定家の孫が東胤行(とうのたねゆき:美濃東氏初代=私の23代前の祖)の妻であるからご縁のある所だ。私の義父の家から1㎞南の木幡(こはた)南山畑に「報恩寺」がある。
 今回,木幡へ文学碑を見にきて,この地が私の先祖ともいろいろご縁があったことを初めて知り,楽しかった。

●報恩寺(真宗大谷派)へ行くと鍵がかかっていたが,住職さんが歌碑を案内してくれた。
  ほつほつと 秋七草の 報恩寺     秋色
 報恩寺の庭にのんびりと咲き始めた草花を写生した一句。矢野秋色は高浜虚子の弟子。虚子の句に「ほつほつと 家ちらばりて 秋野かな」というのがある。
 宇治市と幡多地区の俳句を学ぼうとする人達によって結成された「みささぎ句会」が昭和60年に建立した歌碑。当時の住職(宮下青峰)が中心となり,昭和45年に秋野秋色を講師に迎えて活動した結社。「ほつほつと」という語は,性急でなくのんびりしているさま,とぎれとぎれにするさま,事態がまれであるさま。

 JR木幡駅からここに来る途中,宇治陵(宮内庁)という表示の緑地が沢山あったが何ですか,と住職にお聞きしたら,陵墓で,このような緑地はこの丘に沢山ある,とのこと。JRの線路沿いには被葬者の説明碑があった。
 藤原冬嗣(興福寺南円堂建立)・基経(関白,朱雀天皇と村上天皇の外祖父)・時平(菅原道真を左遷)・兼家(関白,妻は村上天皇の皇女他6人,五男が道長)・道隆(関白,妻4人,兼家の長男)・頼道(関白,道長の長男で平等院鳳凰堂を造営,定家の4代前の長家の兄)・師実(関白,妻10人,頼道の六男,信長の養女を息子の嫁に)の名前がある。藤原家の親戚となる宇多天皇・醍醐天皇・村上天皇・冷泉天皇・円融天皇・花山天皇・三条天皇・一条天皇・後一条天皇・後冷泉天皇・鳥羽天皇・白河天皇の母,妻,娘の名前も表示されている。
 報恩寺から3㎞程上の伏見区日野には,藤原一族ゆかりの「法界寺」があるとのこと。藤原と言えば,私ともご縁があるので急に行きたくなった。坂東氏は足が悪いのでタクシーを呼ぶことにしたが,宇治駅前にしかタクシー会社が無い。電話をすると宇治駅迄電車で来いと言う。木幡駅⇒黄檗駅⇒宇治駅へと電車で戻り,大回りしてタクシーで6㎞走り法界寺へ行き,大発見をする。            (続く)
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