本物語
第76号 2023.8.25
自ら“野人”と称して
小西 忠人
郷土びいきにならないよう,北上・展勝地の事どもを話してみたい。
北上河畔に延びる展勝地は2年前に開園100年を数えた。それを機に市は顕彰碑を新設し,さらには展勝地造園計画の立役者,「沢幸翁」の銅像と記念碑も,公園広場に移設した。翁像と石碑は,これまでは公園角のみちのく民俗村入り口にあったが,やっとしかるべきところに“腰を下ろした”というわけで,話はその翁,立役者のことになる。
自ら“野人”と称したという。その立役者は沢藤幸治(1881~1960)というが,大概の人は「沢幸さん」と呼んだ。時には奇人とも,変人とも。それだけ目の付けどころが違って“異彩”を放った故かと。まずはこうで,東京や大阪で天下国家を論じているかと思えば,郷里に桜を植え,論文を書き,歌を詠み,評論月刊誌『共存共栄』を主宰し,黒沢尻町(現北上市)町議,町長,県議として地方政治に政論を吹き込むといった,実に痛快というほかないが,動いていなければ落ち着かなかったような生涯だ。
明治28年,14歳で東京法学院(現中央大)に就学のために上京。大正12年,42歳で郷里に戻るまでの30年近くの間,後藤新平の書生,大阪毎日新聞記者,材木商,出版など随分いろいろやっている。その後,中央政界に志を抱き,尊敬する平民宰相原敬の「政友会」に関係し,そこで緒方竹虎,中野正剛らと交流し,特に新聞記者時代に知り合った風見章と親交を深めていた。なのになぜか,沢幸は中央政界から離れ帰郷,とまあ,こう語られるが,帰郷後の言動や経歴を資料から透けてくるのは,中央政治に対し地方政治の確立,擁護が歴然としており,思うこともヅケヅケ言った調子で「反骨精神」,「反権力側」に立っている。となれば躊躇なく私も拍手,したくなる。
そこで郷土振興の序曲を奏でるのが「展勝地造園」計画で,何故に郷土が「桜」なのか。当時北上にあった和賀新聞に,町の繁栄策として展勝地計画の精神をうたいあげ,その内容は,北上川に架かる珊瑚橋から北上川河畔の約2キロの桜大路を導入部として,河畔の東に控える畳山(陣が丘),国見山,男山の一帯を「表千本」の染井吉野,「奥千本」の白山桜,さらには「裏千本」の紅山桜といった紅白のあらゆる桜で彩る「天成の一楽園」に。それはまさしく“後藤新平ばり”の壮大さで,大正10年3月に桜の植樹を開始して5月21日には開園式にこぎつける速さで進められ,しかも11月には第二期事業計画も発表。その5月21日の開園式からこの一帯は,桜の景勝地として時を刻み始めた。余談になるが,北上川に架かる珊瑚橋から桜並木を南に500メートルほどの所に「一山園」の記念碑があるが,造園計画に伴う資金面で沢幸は当時の宰相原敬に格別の援助を受け,その報恩として原敬の俳号を刻んでここに残した。
こうした事業が一段落するや,沢幸には次の策,次の手が練られていた。いわゆるペンでもって世論を喚起するという,言論機関の創設だった。それが月刊誌『共存共栄』の発刊となるもので,創刊号の「編集室独語」で沢幸はこう宣言する。――普通選挙法によって政治を浄化させ,国民生活を再始一新する時代がきたこと。そのためには地方の声を中央に徹底的に知らせる言論機関が必要なこと。その意味で本誌は政党政派を超えた独立自由であるからして何びとの所有物でもないこと。文章の巧拙や長短に関係なく,不平でも,攻撃でも,随筆でも感想でも,いかなる意見でもドシドシ投稿してもらいたい――と,かなり思い切った宣言をしている。図書館で実物(既に合本)にふれたが,その宣言を地で行くように投稿者も多士済々で,東京からもいる。名論,卓説なるその“声”に活字も踊りまくるもので,名刺広告も結構並んでいる。しかし昭和15年11月。用紙統制,言論抑圧によって「共存共栄」は廃刊した。16年間積み重ねら「土着的な文化運動」が表面上消えた。とはいえ,地方の片隅で発行し続けた有形のエネルギーは,忖度抜きにして現状に風穴を開けた「意義」が大きいと言いたい。
手前味噌ながら,私の大叔父が沢幸のもとで35年間過ごしていたが,沢幸の論旨犀利,文章爽快だった話をよく聞かされた。「共存共栄」については「『地方の声は、地方の声で終わるもんでねえ。むしろ、その声が徐々に大きぐなって中央さ,響ぐもんだ』の持論はちゃんとあった。そごが沢幸の面白いとごろで,大物政治家が来ても別におもねる口も仕草もなぐて淡々としたもんだった。飲むのもトコトンだった」
今年の「展勝地さくらまつり」には観光馬車運航やライトアップ,夜桜鬼剣舞公演など多彩な催しが4年ぶりに復活。そんな中,モンペ姿に杖をついた立役者の銅像にしばし立ち寄る花見客。100年も前に,それを覚悟し,決断し,行動し,貫徹していなければ,ここには弾ける笑顔も,ふれあいもなかった。「展勝地」と名づけたのは親友風見章そのご仁で,「沢藤君、君は幸せだよ。俺たち政治家は死んでしまえばそれまでだが,君は展勝地とともに残るからなあ」と笑ったという。その話もここには残る。
北上河畔に延びる展勝地は2年前に開園100年を数えた。それを機に市は顕彰碑を新設し,さらには展勝地造園計画の立役者,「沢幸翁」の銅像と記念碑も,公園広場に移設した。翁像と石碑は,これまでは公園角のみちのく民俗村入り口にあったが,やっとしかるべきところに“腰を下ろした”というわけで,話はその翁,立役者のことになる。
自ら“野人”と称したという。その立役者は沢藤幸治(1881~1960)というが,大概の人は「沢幸さん」と呼んだ。時には奇人とも,変人とも。それだけ目の付けどころが違って“異彩”を放った故かと。まずはこうで,東京や大阪で天下国家を論じているかと思えば,郷里に桜を植え,論文を書き,歌を詠み,評論月刊誌『共存共栄』を主宰し,黒沢尻町(現北上市)町議,町長,県議として地方政治に政論を吹き込むといった,実に痛快というほかないが,動いていなければ落ち着かなかったような生涯だ。
明治28年,14歳で東京法学院(現中央大)に就学のために上京。大正12年,42歳で郷里に戻るまでの30年近くの間,後藤新平の書生,大阪毎日新聞記者,材木商,出版など随分いろいろやっている。その後,中央政界に志を抱き,尊敬する平民宰相原敬の「政友会」に関係し,そこで緒方竹虎,中野正剛らと交流し,特に新聞記者時代に知り合った風見章と親交を深めていた。なのになぜか,沢幸は中央政界から離れ帰郷,とまあ,こう語られるが,帰郷後の言動や経歴を資料から透けてくるのは,中央政治に対し地方政治の確立,擁護が歴然としており,思うこともヅケヅケ言った調子で「反骨精神」,「反権力側」に立っている。となれば躊躇なく私も拍手,したくなる。
そこで郷土振興の序曲を奏でるのが「展勝地造園」計画で,何故に郷土が「桜」なのか。当時北上にあった和賀新聞に,町の繁栄策として展勝地計画の精神をうたいあげ,その内容は,北上川に架かる珊瑚橋から北上川河畔の約2キロの桜大路を導入部として,河畔の東に控える畳山(陣が丘),国見山,男山の一帯を「表千本」の染井吉野,「奥千本」の白山桜,さらには「裏千本」の紅山桜といった紅白のあらゆる桜で彩る「天成の一楽園」に。それはまさしく“後藤新平ばり”の壮大さで,大正10年3月に桜の植樹を開始して5月21日には開園式にこぎつける速さで進められ,しかも11月には第二期事業計画も発表。その5月21日の開園式からこの一帯は,桜の景勝地として時を刻み始めた。余談になるが,北上川に架かる珊瑚橋から桜並木を南に500メートルほどの所に「一山園」の記念碑があるが,造園計画に伴う資金面で沢幸は当時の宰相原敬に格別の援助を受け,その報恩として原敬の俳号を刻んでここに残した。
こうした事業が一段落するや,沢幸には次の策,次の手が練られていた。いわゆるペンでもって世論を喚起するという,言論機関の創設だった。それが月刊誌『共存共栄』の発刊となるもので,創刊号の「編集室独語」で沢幸はこう宣言する。――普通選挙法によって政治を浄化させ,国民生活を再始一新する時代がきたこと。そのためには地方の声を中央に徹底的に知らせる言論機関が必要なこと。その意味で本誌は政党政派を超えた独立自由であるからして何びとの所有物でもないこと。文章の巧拙や長短に関係なく,不平でも,攻撃でも,随筆でも感想でも,いかなる意見でもドシドシ投稿してもらいたい――と,かなり思い切った宣言をしている。図書館で実物(既に合本)にふれたが,その宣言を地で行くように投稿者も多士済々で,東京からもいる。名論,卓説なるその“声”に活字も踊りまくるもので,名刺広告も結構並んでいる。しかし昭和15年11月。用紙統制,言論抑圧によって「共存共栄」は廃刊した。16年間積み重ねら「土着的な文化運動」が表面上消えた。とはいえ,地方の片隅で発行し続けた有形のエネルギーは,忖度抜きにして現状に風穴を開けた「意義」が大きいと言いたい。
手前味噌ながら,私の大叔父が沢幸のもとで35年間過ごしていたが,沢幸の論旨犀利,文章爽快だった話をよく聞かされた。「共存共栄」については「『地方の声は、地方の声で終わるもんでねえ。むしろ、その声が徐々に大きぐなって中央さ,響ぐもんだ』の持論はちゃんとあった。そごが沢幸の面白いとごろで,大物政治家が来ても別におもねる口も仕草もなぐて淡々としたもんだった。飲むのもトコトンだった」
今年の「展勝地さくらまつり」には観光馬車運航やライトアップ,夜桜鬼剣舞公演など多彩な催しが4年ぶりに復活。そんな中,モンペ姿に杖をついた立役者の銅像にしばし立ち寄る花見客。100年も前に,それを覚悟し,決断し,行動し,貫徹していなければ,ここには弾ける笑顔も,ふれあいもなかった。「展勝地」と名づけたのは親友風見章そのご仁で,「沢藤君、君は幸せだよ。俺たち政治家は死んでしまえばそれまでだが,君は展勝地とともに残るからなあ」と笑ったという。その話もここには残る。