本物語
第77号 2023.12.25
太宰 と たけ の像
白川 治子
約20年前に,私は友達と2人、太宰像に会いたくて青森県北津軽郡小泊(こどまり)村(平成17(2005)年中里町と合併し中泊町となる)を訪れた。青森駅を朝6時12分に出発し、奥羽線で川部まで川部から五能線で五所川原。さらに津軽鉄道に乗り換え、終点の津軽中里へ。中里で1時間以上待ち、小泊に着いたのは10時40分頃。青森から4時間以上かかった。太宰が訪れた頃とさして時間は変わらないか、もっとかかっているかもしれない。
太宰治は昭和19(1944)年にふるさと津軽を巡り懐かしい人に再会した。その時の小説が『津軽』である。太宰35歳の時。玉川上水に身を投げる4年前のことだが,『津軽』は4年後に命を絶つことを微塵も感じさせない軽やかな小説だ。
彼がいちばん訪ねたかった小泊は,母とも慕う子守“たけ”が嫁いだ村である。「越野たけ」の名前だけを頼りに,運動会を見ていた彼女と,劇的な再会を果たす。今回とりあげる銅像は,その再会を表したものだ。
2歳の太宰と13歳の子守“たけ”との最初の出会いは,北津軽郡金木村(今は町になっている。五所川原から津軽鉄道で20分強の地にある。)の太宰の生家。太宰が生まれる2年前の明治40年に,大地主だった父・津島源右衛門が建てた豪邸。階下は11室で278坪,2階は8室で160坪。太宰は『苦悩の年鑑』で,「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。」と書いている。大地主の家に生まれたことを幸せとは感じず,苦悩と感ずる感性が太宰だなぁと思うばかりである。今は「斜陽館」となっている生家に泊まったことがあるが,たしかに大きい。冬はさぞかし寒かったろう。
小作が地主にお礼奉公するのはよくあったらしく, “たけ”もそんな経緯で津島修二(本名)の子守になった。彼女は,読む本がなくなると,村の日曜学校から子供の本を借りてきては,本を読むことを教えたり,近所の寺で地獄絵を見せて道徳教育も行った。(この寺と地獄絵は今も見ることができる。)このように子守の域を超えて愛情を降り注いだのだ。“たけ”に対する太宰の切ないまでの思「いは,『思ひ出』や『津軽』に書かれている。「私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、「たばこも飲むなう。さっきから立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読むことだば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきやなう」。 “たけ”に再会した太宰は,「私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい」。
1989年に完成した像は,2人が再会した場所・北津軽郡小泊村砂山にある。モンペ姿の“たけ”とゲートルを巻いた太宰。お互いに顔を見つめ合うこともなく,抱き合うわけでもない,一見よそよそしいが,安堵感に満ち溢れている2人の銅像だ。
像の隣の記念館には,生前のビデオや,衣装などが展示してある。ビデオで見た83歳の“たけ”さんは,色つやが良くて若々しかった。再会時は太宰35歳,たけ46歳だから,この像より若いはずだ。この像はまるで年寄りに見える。ちなみに,彼女が亡くなったのは,1983年。85歳まで長生きした。
ところでこの約20年前の旅では,銅像ばかりでなく,思わぬ出会いがあった。中里から小泊までのマイクロバスは,高校生や土地の人ばかりが乗っていた。「“たけ”と太宰の像に会いに行く」と話すと,“たけ”さんの娘さんの所に案内してやると,50歳がらみの男性が言う。記念館と銅像だけを目指していたのだが,連れて行ってもらうことにした。そこは娘さんの家。
思いもかけず,“たけ”の長女・久保田文枝さんと話すことが出来た。「たけ年譜」には1925年四女文枝誕生となっている。“たけ”は後妻で,次女と三女が生後死亡したので,文枝さんは長女みたいなものだ。
小泊は太宰が訪れた当時も活気ある漁村だったが,私が訪れた時もイカやモズクの産地。岸壁には,何隻もの舟がつながれていて、イカが天日干しされていた。文枝さんも娘さんの店を手伝っていて,イカの炭火焼などを売っていた。文枝さんは「母は太宰の子守をしていたこと,突然訪ねて来た日のことを繰り返し話していました」「私たち小泊の者は,太宰の作品なんか,好きでないけど,よーく若い人が訪ねて来ます」など,話してくれた。声も話し方も若々しく,きれいな方だった。1925年生まれだから今は100歳近い。お元気だろうか。
太宰治は昭和19(1944)年にふるさと津軽を巡り懐かしい人に再会した。その時の小説が『津軽』である。太宰35歳の時。玉川上水に身を投げる4年前のことだが,『津軽』は4年後に命を絶つことを微塵も感じさせない軽やかな小説だ。
彼がいちばん訪ねたかった小泊は,母とも慕う子守“たけ”が嫁いだ村である。「越野たけ」の名前だけを頼りに,運動会を見ていた彼女と,劇的な再会を果たす。今回とりあげる銅像は,その再会を表したものだ。
2歳の太宰と13歳の子守“たけ”との最初の出会いは,北津軽郡金木村(今は町になっている。五所川原から津軽鉄道で20分強の地にある。)の太宰の生家。太宰が生まれる2年前の明治40年に,大地主だった父・津島源右衛門が建てた豪邸。階下は11室で278坪,2階は8室で160坪。太宰は『苦悩の年鑑』で,「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。」と書いている。大地主の家に生まれたことを幸せとは感じず,苦悩と感ずる感性が太宰だなぁと思うばかりである。今は「斜陽館」となっている生家に泊まったことがあるが,たしかに大きい。冬はさぞかし寒かったろう。
小作が地主にお礼奉公するのはよくあったらしく, “たけ”もそんな経緯で津島修二(本名)の子守になった。彼女は,読む本がなくなると,村の日曜学校から子供の本を借りてきては,本を読むことを教えたり,近所の寺で地獄絵を見せて道徳教育も行った。(この寺と地獄絵は今も見ることができる。)このように子守の域を超えて愛情を降り注いだのだ。“たけ”に対する太宰の切ないまでの思「いは,『思ひ出』や『津軽』に書かれている。「私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、「たばこも飲むなう。さっきから立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読むことだば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきやなう」。 “たけ”に再会した太宰は,「私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい」。
1989年に完成した像は,2人が再会した場所・北津軽郡小泊村砂山にある。モンペ姿の“たけ”とゲートルを巻いた太宰。お互いに顔を見つめ合うこともなく,抱き合うわけでもない,一見よそよそしいが,安堵感に満ち溢れている2人の銅像だ。
像の隣の記念館には,生前のビデオや,衣装などが展示してある。ビデオで見た83歳の“たけ”さんは,色つやが良くて若々しかった。再会時は太宰35歳,たけ46歳だから,この像より若いはずだ。この像はまるで年寄りに見える。ちなみに,彼女が亡くなったのは,1983年。85歳まで長生きした。
ところでこの約20年前の旅では,銅像ばかりでなく,思わぬ出会いがあった。中里から小泊までのマイクロバスは,高校生や土地の人ばかりが乗っていた。「“たけ”と太宰の像に会いに行く」と話すと,“たけ”さんの娘さんの所に案内してやると,50歳がらみの男性が言う。記念館と銅像だけを目指していたのだが,連れて行ってもらうことにした。そこは娘さんの家。
思いもかけず,“たけ”の長女・久保田文枝さんと話すことが出来た。「たけ年譜」には1925年四女文枝誕生となっている。“たけ”は後妻で,次女と三女が生後死亡したので,文枝さんは長女みたいなものだ。
小泊は太宰が訪れた当時も活気ある漁村だったが,私が訪れた時もイカやモズクの産地。岸壁には,何隻もの舟がつながれていて、イカが天日干しされていた。文枝さんも娘さんの店を手伝っていて,イカの炭火焼などを売っていた。文枝さんは「母は太宰の子守をしていたこと,突然訪ねて来た日のことを繰り返し話していました」「私たち小泊の者は,太宰の作品なんか,好きでないけど,よーく若い人が訪ねて来ます」など,話してくれた。声も話し方も若々しく,きれいな方だった。1925年生まれだから今は100歳近い。お元気だろうか。