本物語
第77号 2023.12.25
ある戦中世代の思い出
鈴木 雅子
「とんとんとんからりと隣組。
障子をあければ顔なじみ。
廻して頂戴、回覧板。
知らせられたり知らせたり」
こんな歌,覚えている人はもう少ないことだろう。前(さき)の戦争中に歌われた歌だから。その頃私は女学校に入ったばかりぐらいだったか。友達が「戦争こわいねえ」と言っても,まだ実感がわかなかった。夏休みには勤労奉仕で( き)宮城(ゅうじょ)((う )今は皇居という)前広場に,同じく駆り出された男子中学生ともども(当時は男女別学で,男子と一緒のクラスになることはなかった。男子は中学校に,女子は女学校に進むものであった。)真夏の暑さの中,草取りや土ならしをさせられ,ある時気分が悪くなり気を失い,倒れてしまったこともあったっけ。当時は天皇は現人神(あらひとがみ)だから皆の前に姿を見せられることは無く,また感謝のお言葉等も勿論無く,臣民(・・)が天皇のために奉仕するのは当然のことだったのである。或る年は大日本印刷の工場での勤労奉仕で戦死者名簿を筆写したが,殆どが戦争(・・)栄養(・・)失調症(・・・)で亡くなっていた。それが餓死(・・)だと知ったのは戦後ずっと後(あと)のことだった。山本五十六元帥の戦死も,どこかの工場で勤労奉仕中に知ったと思う。その後,授業前に先ず宮城の方角に向かって遥拝してから授業を始める先生が出始めるようにもなっていった,という次第。
当時は食糧はすべて配給で,或る時,十糎(セン)位(チ )に切った大根一つと鰯(いわ)何(し )匹かが配給になり,久しぶりの御馳走(・・・)に家族三人で大喜びして防空壕の中で食べたのを忘れない。こんな事を多分死ぬまで忘れないだろうというのが何とも不思議である。
女学校ではクラスが幾グループかに分かれて慰問袋を作って戦地に送り,兵隊さんから返事が来て何回か文通した。(確かその手紙類は昭和の暮し博物館に寄付したと思う。)そんな調子で女学校は五年で卒業したが,ちゃんとした勉強は二年ぐらいやったかどうか。卒業後一応上級学校(女子大)に進んだが,これも初めは半分草取り,半分講義。上級生は近くの,確か中島飛行機の工場に駆り出されて姿は無く,その状態のうちに戦争が終ったのだった。
講堂ではじめて天皇の直(じか)の御声での終戦(・・)の(・)勅語(・・)を聞いたが,何と言われたのかさっぱり分からず,友達と,皆もう少しがんばって,というお言葉だろうと話し合っていたのだが,先生が戦争は終ったと言われたので,やっと終戦を知ったのだった。(ずっと後(のち)に山仲間の上級生が天皇は責任をとって退位されるかと思ったが,と話していたが,退位されることは無かった),帰宅して,焼け出されて我が家にころがりこんでいた遠い遠い縁者だという奥さんが,戦争が終ったと喜んでいるのを見て,私はその時はまだ敗戦をそんなに大喜びしてもよいのだろうかと心配で,感情を表に出すのを警戒していたのだった。その後しばらく学校は休校となり,どれぐらいで学校が再開されたかもう忘れたが,また学校に行くことになって何とか勉強するようになったのである。自分の不勉強を棚に上げるようで忸怩たるものがあるが,そんなこんなで私は英語の初歩を飛び越して変な学び方をしたので英語の実力がないのだと自己辨護でごまかしている,しょうもない人間で我ながら情けないと思っている。
大人になってからは家事,育児で勉強する暇はなく,年寄ってからは今更ねェという調子でボヤボヤ過ごし,もうじき死ぬんだから,と悟ったように。マ,そんなわけでお恥ずかしい次第ながら,ずるずると無為の日々を過ごしてしまっているのである。気の利かない私が本を読んだり書いたりしているので,つい娘が洗濯や食事等皆してくれるのをいいことに,何もしない悪い婆ァになってしまったとは思うが,昔のように家事一切やれるという自信も無く,かえって邪魔になりそうと迷ったり情けなくなったり,いっそ死んでしまったら楽だろうなと亡くなった友人を羨ましく思ったり,でも種々やりがけ(・・・・)(私はいつも「やりかけ」と言っていますが,手元の小さい辞書には載っていませんでした。私の言葉には石川県出身の母からの石川方言が混じっているらしいです。)のまま死んだら却って迷惑だろうと……しょうのないバアサン状態で悩みは尽きず,生きているというのも大変だと思う。何とか残してある事や物をきちんと始末してから消えたいと思う悩み多い婆さんの繰言(くりごと)。こんな事ばかり書いてお耳,いやお目をけがして済みませんでした。どうぞお許しを。
さて,この後何を書いたらよいのやら。始末するものの中に,案外書き残しておきたいものが見つかるかもしれません。押し入れの中,いや空っぽの頭の中もたたいて,消えかけた思い出をたぐり寄せることにしましょう。思い出せたらよいのですが……。
もう少し生きていられたら来年1月の初めに96歳になります。
障子をあければ顔なじみ。
廻して頂戴、回覧板。
知らせられたり知らせたり」
こんな歌,覚えている人はもう少ないことだろう。前(さき)の戦争中に歌われた歌だから。その頃私は女学校に入ったばかりぐらいだったか。友達が「戦争こわいねえ」と言っても,まだ実感がわかなかった。夏休みには勤労奉仕で( き)宮城(ゅうじょ)((う )今は皇居という)前広場に,同じく駆り出された男子中学生ともども(当時は男女別学で,男子と一緒のクラスになることはなかった。男子は中学校に,女子は女学校に進むものであった。)真夏の暑さの中,草取りや土ならしをさせられ,ある時気分が悪くなり気を失い,倒れてしまったこともあったっけ。当時は天皇は現人神(あらひとがみ)だから皆の前に姿を見せられることは無く,また感謝のお言葉等も勿論無く,臣民(・・)が天皇のために奉仕するのは当然のことだったのである。或る年は大日本印刷の工場での勤労奉仕で戦死者名簿を筆写したが,殆どが戦争(・・)栄養(・・)失調症(・・・)で亡くなっていた。それが餓死(・・)だと知ったのは戦後ずっと後(あと)のことだった。山本五十六元帥の戦死も,どこかの工場で勤労奉仕中に知ったと思う。その後,授業前に先ず宮城の方角に向かって遥拝してから授業を始める先生が出始めるようにもなっていった,という次第。
当時は食糧はすべて配給で,或る時,十糎(セン)位(チ )に切った大根一つと鰯(いわ)何(し )匹かが配給になり,久しぶりの御馳走(・・・)に家族三人で大喜びして防空壕の中で食べたのを忘れない。こんな事を多分死ぬまで忘れないだろうというのが何とも不思議である。
女学校ではクラスが幾グループかに分かれて慰問袋を作って戦地に送り,兵隊さんから返事が来て何回か文通した。(確かその手紙類は昭和の暮し博物館に寄付したと思う。)そんな調子で女学校は五年で卒業したが,ちゃんとした勉強は二年ぐらいやったかどうか。卒業後一応上級学校(女子大)に進んだが,これも初めは半分草取り,半分講義。上級生は近くの,確か中島飛行機の工場に駆り出されて姿は無く,その状態のうちに戦争が終ったのだった。
講堂ではじめて天皇の直(じか)の御声での終戦(・・)の(・)勅語(・・)を聞いたが,何と言われたのかさっぱり分からず,友達と,皆もう少しがんばって,というお言葉だろうと話し合っていたのだが,先生が戦争は終ったと言われたので,やっと終戦を知ったのだった。(ずっと後(のち)に山仲間の上級生が天皇は責任をとって退位されるかと思ったが,と話していたが,退位されることは無かった),帰宅して,焼け出されて我が家にころがりこんでいた遠い遠い縁者だという奥さんが,戦争が終ったと喜んでいるのを見て,私はその時はまだ敗戦をそんなに大喜びしてもよいのだろうかと心配で,感情を表に出すのを警戒していたのだった。その後しばらく学校は休校となり,どれぐらいで学校が再開されたかもう忘れたが,また学校に行くことになって何とか勉強するようになったのである。自分の不勉強を棚に上げるようで忸怩たるものがあるが,そんなこんなで私は英語の初歩を飛び越して変な学び方をしたので英語の実力がないのだと自己辨護でごまかしている,しょうもない人間で我ながら情けないと思っている。
大人になってからは家事,育児で勉強する暇はなく,年寄ってからは今更ねェという調子でボヤボヤ過ごし,もうじき死ぬんだから,と悟ったように。マ,そんなわけでお恥ずかしい次第ながら,ずるずると無為の日々を過ごしてしまっているのである。気の利かない私が本を読んだり書いたりしているので,つい娘が洗濯や食事等皆してくれるのをいいことに,何もしない悪い婆ァになってしまったとは思うが,昔のように家事一切やれるという自信も無く,かえって邪魔になりそうと迷ったり情けなくなったり,いっそ死んでしまったら楽だろうなと亡くなった友人を羨ましく思ったり,でも種々やりがけ(・・・・)(私はいつも「やりかけ」と言っていますが,手元の小さい辞書には載っていませんでした。私の言葉には石川県出身の母からの石川方言が混じっているらしいです。)のまま死んだら却って迷惑だろうと……しょうのないバアサン状態で悩みは尽きず,生きているというのも大変だと思う。何とか残してある事や物をきちんと始末してから消えたいと思う悩み多い婆さんの繰言(くりごと)。こんな事ばかり書いてお耳,いやお目をけがして済みませんでした。どうぞお許しを。
さて,この後何を書いたらよいのやら。始末するものの中に,案外書き残しておきたいものが見つかるかもしれません。押し入れの中,いや空っぽの頭の中もたたいて,消えかけた思い出をたぐり寄せることにしましょう。思い出せたらよいのですが……。
もう少し生きていられたら来年1月の初めに96歳になります。