本物語
第77号 2023.12.25
花巻・山居7年、高村光太郎
小西 忠人
花巻市の中心市街地から南西に10キロ余り。奥羽山脈の麓に近い旧太田村(現花巻市)山口の雑木林の中に山小屋がある。ここが高村光太郎が戦後の7年間、思索と農耕自炊の暮らしをしたところである。その光太郎が今年生誕140年、「ここ」を離れてからは70年が過ぎている。とうに世代が代わっても、たぐいまれなこの芸術家を慕う話は尽きることがない。それだけ光太郎の精神世界が心に宿り続けるからだろう。
山に入ったことに光太郎はこう回想されたという。「自分の言ったことに対する責任を負うためであり、自己流謫(るたく)の気持ちからであった」と“必然的な理由”を話され、そしてまた「自然の中が最も安住の地だと思った」と述懐されたという。
それにしても70歳になんなんとする老齢の身でありながら、しかも胸の病をおして物資の不自由な寒冷の地に身を置いた、このことが私のような凡俗な頭からは何もそこまでして―との思いがずっとしていたし、正直なところ口にも出掛かっていた。
山小屋は、元鉱山の飯場小屋を営林署から払い下げて村民が解体して運んで組み立てたもので、わずか7坪半。屋根は杉皮ぶき、壁は荒壁、柱も梁も粗削り。入り口は二枚引き違いの板戸で障子一枚きりといった具合で、造り全体がすき間だらけ。冬になれば西の山(奥羽山脈)の空からは風を巻いた吹雪が半端ではないし、時には零下20度近くにもなる。夏は夏で、今度は蚊やブヨにもさんざん悩まされていたと思う。
なのに、「ここ」に身を置いた。それが“必然的な理由”になったとなると、戦時中の光太郎は中央協力会議議員、日本文学報国会の詩部会会長でもあったことが、戦後の光太郎の軌跡をたどる要因と言いたい。日本文学報国会は太平洋戦争下の昭和17年5月に「日本文化の顕揚」を目的に内閣情報局の外郭団体として設立され、「文学による戦意高揚、国策宣伝のため」(日本百科全書より)に、小説、劇文学、評論随筆、詩、短歌、俳句、国文学、外国文学の8部会の専門分野から発信され、その統制のもとで詩部会会長、すなわち詩人高村光太郎は戦争詩を通じて戦争遂行に協力している。筑摩書房刊「高村光太郎全集21巻」の第3巻によると、太平洋戦争が開戦した昭和16年12月8日から30年12月19日までの作品を収録。16年から20年にかけて戦争詩、それに関する詩が130以上ある。この紛れもない事実を改めて知り、このこと
は戦後の高村詩部会会長が、流謫の境涯を「ここ」に据える理由だったと強く感じる。
光太郎が花巻に疎開したのが終戦間際の20年5月の半ば。その前月の13日深夜の東京大空襲で本郷駒込林町のアトリエが作品とともに炎上した。わずかに持ち出したのは父光雲の作品2点と詩稿類の1部、彫刻刀と砥石などだったという。このために疎開を勧めたのが賢治の父政次郎氏と、賢治の主治医でもあった総合花巻病院医院長佐藤隆房氏である。その両氏の心遣いを謝しながらもその年の晩秋から山小屋に没入し、慣れぬ畑作仕事に汗を流し、多くの出会いと思索の日々にあり、村民に「高村先生」と慕われながらも村民の一人として溶け込み、教育関係者、県内の芸術家らとも交流し、むろん両氏との絆がより強まっている。方々から講演を頼まれ出掛けてもいる。彫刻は封印されているが、書は数百点にも及んだという。詩も多く生まれている。愛する亡妻、智恵子への「智恵子抄その後」、詩的自叙伝といわれる連作「暗愚小伝」を発表し、「雪白く積めり」はその後、山小屋の木立の間に詩碑として建てられた。
山居5年目の10月。「今日も愚直な雪が降り 小屋はつんぼのやうに黙りむ。 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。―」詩集「典型」(第二回読売文学賞受賞)が発表された。この詩の序文(同書房、第11巻)で述べる「―この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。―」とされながら戦争に協力したことへの己を「愚劣の典型」と明かしている。このことを私は厳粛に受け止めたい。なぜなら、自責の念を「ここ」に身を置き、自己内省を課す時間帯がどれほど重いものであったかを思い知らされるからである。同時にまた、自己を明かされたことで彫刻家・詩人の魂の新たな創造世界を試みる―再生に向けた時間帯も「ここ」には静かに流れていた気がしてくるものだ。
こんにち、高村光太郎に語り継がれる理由には、そうした己と対峙し続ける確固たる姿、その言い知れぬ強さに引かれるからだろう。7年の日々に残された写真には、彫刻家・詩人、書家としても生き、そして孤独に生き抜いた、そのき然としたたたずまいから伝わってくる不抜な気力というものを映しているように受け止める私である。
27年秋。光太郎は十和田湖畔に建つ裸婦像制作のために「ここ」を出、佐藤氏たちに完成後には再び―と約しての上京だったという。しかし、4年後の4月2日、74歳で没した。病因は長い間悩まされ続けた結核といわれる。「安住の地」と述懐された今の「高村山荘」の周りには、巨匠とともに生きた樹木が頭上高く枝を広げている―。
山に入ったことに光太郎はこう回想されたという。「自分の言ったことに対する責任を負うためであり、自己流謫(るたく)の気持ちからであった」と“必然的な理由”を話され、そしてまた「自然の中が最も安住の地だと思った」と述懐されたという。
それにしても70歳になんなんとする老齢の身でありながら、しかも胸の病をおして物資の不自由な寒冷の地に身を置いた、このことが私のような凡俗な頭からは何もそこまでして―との思いがずっとしていたし、正直なところ口にも出掛かっていた。
山小屋は、元鉱山の飯場小屋を営林署から払い下げて村民が解体して運んで組み立てたもので、わずか7坪半。屋根は杉皮ぶき、壁は荒壁、柱も梁も粗削り。入り口は二枚引き違いの板戸で障子一枚きりといった具合で、造り全体がすき間だらけ。冬になれば西の山(奥羽山脈)の空からは風を巻いた吹雪が半端ではないし、時には零下20度近くにもなる。夏は夏で、今度は蚊やブヨにもさんざん悩まされていたと思う。
なのに、「ここ」に身を置いた。それが“必然的な理由”になったとなると、戦時中の光太郎は中央協力会議議員、日本文学報国会の詩部会会長でもあったことが、戦後の光太郎の軌跡をたどる要因と言いたい。日本文学報国会は太平洋戦争下の昭和17年5月に「日本文化の顕揚」を目的に内閣情報局の外郭団体として設立され、「文学による戦意高揚、国策宣伝のため」(日本百科全書より)に、小説、劇文学、評論随筆、詩、短歌、俳句、国文学、外国文学の8部会の専門分野から発信され、その統制のもとで詩部会会長、すなわち詩人高村光太郎は戦争詩を通じて戦争遂行に協力している。筑摩書房刊「高村光太郎全集21巻」の第3巻によると、太平洋戦争が開戦した昭和16年12月8日から30年12月19日までの作品を収録。16年から20年にかけて戦争詩、それに関する詩が130以上ある。この紛れもない事実を改めて知り、このこと
は戦後の高村詩部会会長が、流謫の境涯を「ここ」に据える理由だったと強く感じる。
光太郎が花巻に疎開したのが終戦間際の20年5月の半ば。その前月の13日深夜の東京大空襲で本郷駒込林町のアトリエが作品とともに炎上した。わずかに持ち出したのは父光雲の作品2点と詩稿類の1部、彫刻刀と砥石などだったという。このために疎開を勧めたのが賢治の父政次郎氏と、賢治の主治医でもあった総合花巻病院医院長佐藤隆房氏である。その両氏の心遣いを謝しながらもその年の晩秋から山小屋に没入し、慣れぬ畑作仕事に汗を流し、多くの出会いと思索の日々にあり、村民に「高村先生」と慕われながらも村民の一人として溶け込み、教育関係者、県内の芸術家らとも交流し、むろん両氏との絆がより強まっている。方々から講演を頼まれ出掛けてもいる。彫刻は封印されているが、書は数百点にも及んだという。詩も多く生まれている。愛する亡妻、智恵子への「智恵子抄その後」、詩的自叙伝といわれる連作「暗愚小伝」を発表し、「雪白く積めり」はその後、山小屋の木立の間に詩碑として建てられた。
山居5年目の10月。「今日も愚直な雪が降り 小屋はつんぼのやうに黙りむ。 小屋にゐるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ。―」詩集「典型」(第二回読売文学賞受賞)が発表された。この詩の序文(同書房、第11巻)で述べる「―この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。―」とされながら戦争に協力したことへの己を「愚劣の典型」と明かしている。このことを私は厳粛に受け止めたい。なぜなら、自責の念を「ここ」に身を置き、自己内省を課す時間帯がどれほど重いものであったかを思い知らされるからである。同時にまた、自己を明かされたことで彫刻家・詩人の魂の新たな創造世界を試みる―再生に向けた時間帯も「ここ」には静かに流れていた気がしてくるものだ。
こんにち、高村光太郎に語り継がれる理由には、そうした己と対峙し続ける確固たる姿、その言い知れぬ強さに引かれるからだろう。7年の日々に残された写真には、彫刻家・詩人、書家としても生き、そして孤独に生き抜いた、そのき然としたたたずまいから伝わってくる不抜な気力というものを映しているように受け止める私である。
27年秋。光太郎は十和田湖畔に建つ裸婦像制作のために「ここ」を出、佐藤氏たちに完成後には再び―と約しての上京だったという。しかし、4年後の4月2日、74歳で没した。病因は長い間悩まされ続けた結核といわれる。「安住の地」と述懐された今の「高村山荘」の周りには、巨匠とともに生きた樹木が頭上高く枝を広げている―。