本物語
第78号 2024.3.31
震災を乗り越えて できることは?
井上 剛
2024年の幕開け。例年の通り初日の出を撮影しようと山元町の海岸にでかけた。水平線近くの雲から光彩がまばゆい光を放つ様子には力強さを感じた。2024年も山元町の海岸でおだやかな一年の始まりを迎えることができたことに感謝し,今年こそは穏やかな一年なってほしいと願いながら,カメラのシャッターを切った。一年のうち最もホッとする日で,家族が集まりゆったりとくつろいでいたその時に,まさか元旦に,誰も予想していない,そして起きてほしくない時刻が迫っていた。
その日の午後4時10分に能登半島地震が発生した。私は,自宅に戻って家族とゆっくり過ごしていたところだった。突然,緊急地震速報が鳴り響いた。続いて大きな長周期地震動が伝わってきた。幸い自宅周辺では被害はなかったが,テレビに能登半島の状況が映し出されていた。その光景は13年前の東日本大震災で大津波を受けていた私たちの様子と重なり,まるで自分が現地にいるように感じ,痛みを感じた。13年前の3月11日も穏やかな良い日で午前は多くの中学校が卒業式を挙行していた。午後の大地震と大津波が,この日に起こるとは,誰も予想していなかった。私たちは二日前の3月9日に三陸沖で少し大きな地震を受け,いつか大きな地震が起こると,対応を検討していたが,二日後に起こることまでは予想できなかった。自分がテレビの中にいて,関東以西の人たちが同じようにリアルタイムでテレビを見て,驚き,恐れ,心配している様子と,今自分が自宅にいて,テレビを見ている様子と交錯し,とてもショックを受けた。どのチャンネルも同じ情報で,テレビの情報から逃れることもできず,だからと言ってスイッチを切る勇気もなく,固唾を飲んで見ることしかできないもどかしさを大いに感じた。津波到達の情報にもライブカメラの映像では上手く伝わらず,5mの津波ならこんなもんじゃないと思いつつ,異常に速い到達時刻に,なんとか一人でも多くの人が逃げてほしいと祈ることしかできないことに苛立ちすら感じた。
私たちがこれまで伝え続けてきた教訓は能登の人たちに届いていたのだろうか。能登半島では2020年から地震が多発していたことで,避難訓練をしっかりしていたとの報道もあったが,実際はどうだったのだろう。大変心配な状況だったと思う。5分で何ができるだろうか。詳しい状況が分からず,何もしてあげられない自分の無力さ,を痛感していた。
何日経っても,半島部の被災特有の最悪の状況しか伝わってこない。状況は一向に好転していないようだ。現地にボランティアが入れない情報ばかりがクローズアップされているが,どうすればいいのかという情報は,あまり入ってこない。自分はどうすべきか決めることができないでいた。それでも,いち早く現地入りして活動していた「ピース・ウィンズ・ジャパン(空飛ぶ医療団)」の橋本さんからリモートによる情報などを聞いた。現地の過酷な状況や現地の窮状を聞くことで,何とか現地に馳せ参じたいという思いは募るばかりだった。自分一人なら,とっくに飛び出していただろう。しかし,家族の介護の問題を抱えて動けない自分がいるというジレンマに苛まれた。一月は,とても長く感じた。
現地に行くことばかりが,支援ではないこと。貢献できることは,必ずやって来ると自分に言い聞かせ,自分はその時までに何をしていけばいいのか,何を準備していけばいいのかを考え始めることにした。現時点で考えていることは,被災地に直接貢献すること以外でも自分がこれまで行ってきた13年前の経験から乗り越えてきた過程や,工夫したこと,上手くいったこと,失敗だったこと等をこれまで以上に伝える活動をすることだと考えるに至った。能登地震の復興は長期的な支援を必要とする様相を呈している。ならば今すぐでなくても必ず私たちの経験や知見が生かされる日が来る。その日のために今まで以上にしっかりと今の語り部の活動に力を入れ,役に立つことを整理して伝え、提供していくこと。これが遠回りのようで,私たちの力を活かせる道だと考えることにした。全国で能登の人たちを救いたいと思う人たちは,たくさんいる。被災地に行って活動できた方は,どうかその様子を多くの人に発信して,次に続く人たちの参考にしてほしい。次に続く人たちは,自分のできることを無理なく継続して支援していきたいものだ。長期化が避けられない支援の在り方は,波状的に, 気長に継続することが大事だと思う。私たちが当時の子どもたちに寄り添ってきた時間は,その子たちが成人するまで寄り添うというとても長期に及んだ。心のケアは,カウンセリングだけじゃない。ずっと寄り添い,必要な時に相談できる相手がいる安心感をみんなで作っていくことだと思う。そのような実践であれば,私たちの経験を能登の人たちに自信をもって伝えていけるのかなあと考えている。
その日の午後4時10分に能登半島地震が発生した。私は,自宅に戻って家族とゆっくり過ごしていたところだった。突然,緊急地震速報が鳴り響いた。続いて大きな長周期地震動が伝わってきた。幸い自宅周辺では被害はなかったが,テレビに能登半島の状況が映し出されていた。その光景は13年前の東日本大震災で大津波を受けていた私たちの様子と重なり,まるで自分が現地にいるように感じ,痛みを感じた。13年前の3月11日も穏やかな良い日で午前は多くの中学校が卒業式を挙行していた。午後の大地震と大津波が,この日に起こるとは,誰も予想していなかった。私たちは二日前の3月9日に三陸沖で少し大きな地震を受け,いつか大きな地震が起こると,対応を検討していたが,二日後に起こることまでは予想できなかった。自分がテレビの中にいて,関東以西の人たちが同じようにリアルタイムでテレビを見て,驚き,恐れ,心配している様子と,今自分が自宅にいて,テレビを見ている様子と交錯し,とてもショックを受けた。どのチャンネルも同じ情報で,テレビの情報から逃れることもできず,だからと言ってスイッチを切る勇気もなく,固唾を飲んで見ることしかできないもどかしさを大いに感じた。津波到達の情報にもライブカメラの映像では上手く伝わらず,5mの津波ならこんなもんじゃないと思いつつ,異常に速い到達時刻に,なんとか一人でも多くの人が逃げてほしいと祈ることしかできないことに苛立ちすら感じた。
私たちがこれまで伝え続けてきた教訓は能登の人たちに届いていたのだろうか。能登半島では2020年から地震が多発していたことで,避難訓練をしっかりしていたとの報道もあったが,実際はどうだったのだろう。大変心配な状況だったと思う。5分で何ができるだろうか。詳しい状況が分からず,何もしてあげられない自分の無力さ,を痛感していた。
何日経っても,半島部の被災特有の最悪の状況しか伝わってこない。状況は一向に好転していないようだ。現地にボランティアが入れない情報ばかりがクローズアップされているが,どうすればいいのかという情報は,あまり入ってこない。自分はどうすべきか決めることができないでいた。それでも,いち早く現地入りして活動していた「ピース・ウィンズ・ジャパン(空飛ぶ医療団)」の橋本さんからリモートによる情報などを聞いた。現地の過酷な状況や現地の窮状を聞くことで,何とか現地に馳せ参じたいという思いは募るばかりだった。自分一人なら,とっくに飛び出していただろう。しかし,家族の介護の問題を抱えて動けない自分がいるというジレンマに苛まれた。一月は,とても長く感じた。
現地に行くことばかりが,支援ではないこと。貢献できることは,必ずやって来ると自分に言い聞かせ,自分はその時までに何をしていけばいいのか,何を準備していけばいいのかを考え始めることにした。現時点で考えていることは,被災地に直接貢献すること以外でも自分がこれまで行ってきた13年前の経験から乗り越えてきた過程や,工夫したこと,上手くいったこと,失敗だったこと等をこれまで以上に伝える活動をすることだと考えるに至った。能登地震の復興は長期的な支援を必要とする様相を呈している。ならば今すぐでなくても必ず私たちの経験や知見が生かされる日が来る。その日のために今まで以上にしっかりと今の語り部の活動に力を入れ,役に立つことを整理して伝え、提供していくこと。これが遠回りのようで,私たちの力を活かせる道だと考えることにした。全国で能登の人たちを救いたいと思う人たちは,たくさんいる。被災地に行って活動できた方は,どうかその様子を多くの人に発信して,次に続く人たちの参考にしてほしい。次に続く人たちは,自分のできることを無理なく継続して支援していきたいものだ。長期化が避けられない支援の在り方は,波状的に, 気長に継続することが大事だと思う。私たちが当時の子どもたちに寄り添ってきた時間は,その子たちが成人するまで寄り添うというとても長期に及んだ。心のケアは,カウンセリングだけじゃない。ずっと寄り添い,必要な時に相談できる相手がいる安心感をみんなで作っていくことだと思う。そのような実践であれば,私たちの経験を能登の人たちに自信をもって伝えていけるのかなあと考えている。