本物語
第78号 2024.3.31
ありがとうございます ――96歳 老いぼれ婆さんの独り言――
鈴木 雅子
子供の頃,母はよく他家へのおつかい物に佃煮を持って行っていたように記憶している。私は昭和3年(1928年)1月生まれなので,これは今から90年ほども前の話であるが,それで私も何となく佃煮をさし上げることが多かったと思う。もう昔むかかしのずいぶん前のこと,子供の小学校のPTA委員になった頃,お見舞いか何かのことでクラスの方のお宅に伺う時,ちょっとした手土産を選ぶことになり,私は何げなく「佃煮はどう?」と言ったのだが,一人の方が「佃煮なんか頂いても嬉しくない」と言われたので「エッ」と思った。結局何にしたのか,もう忘れてしまったが,特産のものが無い所では何を選ぶか,よくよく考えなければな,と思ったことであった。私などは佃煮は長持ちする食品だし,おいしいし,頂いたら嬉しいと思ったのだが,皆さんはこんな場合,どうなさっておられるのだろう?予定した額に見合うほどの,なるべく上等のお菓子か食品等ですませるのが無難なのかもしれない,とは思うけれど,金沢の母の実家は,お隣あたりのお店が,評判のよい佃煮屋さんで,手土産によく佃煮を買っていたのだろう。あのお店は今も繁昌しているかしら。年寄ってしまって私はもう金沢まで行って歩きまわるのは叶わぬ身になってしまったが,また金沢に行って歩きまわりたいと思ったことであった。
父の住んでいたのは寺町に近く,沢山のお寺をまわって,その由来などを見てまわるのも勉強になり,そして近くの図書館に入って一休みして,本を読んだり。すぐ横の,(今はどうなっているのか,もう長いこと行っていないので分からないが,)空地で近くのお店で求めた,金沢の和菓子や昔よく食べたお八つ用のお菓子などを頂いて一休み。のら猫が近寄ってきて何かねだったりして閉口してしまったこともあったっけ。父方の祖父が生きていたころは,まだ戦争前だったろうか,それとも戦後だったか,もう忘れてしまったが,にわか雨で,橋の下に入って雨宿りしていて,急いで迎えに来た祖父に,橋の下は危ないと叱られて,岸に上がったすぐ後に,上流からどっと濁った水が流れて来て,びっくりしたものだった。祖父のお迎えがなかったら,あの時私は濁流にのまれて死んでしまっていただろう。長いこと生きてきたが,このことはよい教訓として一生忘れることのない体験となったものである。成人して住んだ国立(くにたち)や甲府とか,今の新百合ヶ丘には,近くに川がないので,そういう目に遭うことはなく,子供の頃,あのような経験をしたことは,貴重なことだったのだなと,今になって思い返している。
そうそう,今思い出したのだが,結婚して,夫の住む今の地――その頃は小田急線の「新百合ヶ丘」という駅は,まだ出来ておらず,百合ヶ丘の次が柿生駅で,柿生駅のすぐ近くの小山というか,丘の上にあった家に住むことになったのだが,(画家であった舅の画室が新婚の私達の新居として与えられたのである。)百合ヶ丘・柿生間の駅間がずいぶん長く,30分位あるかと思う程。それまで東京の荻窪に住んでいた身にはびっくりすることばかりであった。
すごい田舎で,お店も魚屋と雑貨屋があるくらい。肉屋さんもパン屋さんも本屋さんも無く,見渡す限りの畠,畠。何という所に来てしまったのかと思ったが,後悔先に立たず。当時は教育も旧制度で,(新制度の大学は二年ほどあとからはじまったのである。)女性は数えるほど。大学に進む女は余程の変わり者,女らしくない女ということだったのだろう。私の母もお隣の奥様から「もう雅子さんは結婚は出来ませんね」と言われたそうである。研究室でも女性は三人ほど。男子は七人位は居たと思う。この頃の女三人というのは,ずいぶん多かったのだと思われる。その女性の友はだいぶ前に亡くなって一人生き残っている私は,ボケて何もできず,情けない日々を送っている。(お恥ずかしい限りでございます。)
ここまで書いて読み返して思ったのだが,私は一体だらだらと何を言おうとして書いていたのだろう,ということ。前に記したと同じ事を,繰り返し書いているだけで,ボケるということはこういう状態をいうのですよと皆さんにお知らせしているだけだったのでしょうね。以前に書いていた文章などと比べてみれば分かるだろうということ。今,私に残っている友人は,女子大時代のたった一人になってしまった。去年,女学校時代の残っていた一人が亡くなって,皆が私の来るのを待っているのでしょう。自分でも,ただダラダラと下手な文章を書き連ねたのを申し訳なく思います。もうじき姿を消す者の言葉としてお許しください。いつも読んでくださってありがとうございました。どうぞ皆々様には末永くお元気で,お幸せにお過ごしくださいませ。
父の住んでいたのは寺町に近く,沢山のお寺をまわって,その由来などを見てまわるのも勉強になり,そして近くの図書館に入って一休みして,本を読んだり。すぐ横の,(今はどうなっているのか,もう長いこと行っていないので分からないが,)空地で近くのお店で求めた,金沢の和菓子や昔よく食べたお八つ用のお菓子などを頂いて一休み。のら猫が近寄ってきて何かねだったりして閉口してしまったこともあったっけ。父方の祖父が生きていたころは,まだ戦争前だったろうか,それとも戦後だったか,もう忘れてしまったが,にわか雨で,橋の下に入って雨宿りしていて,急いで迎えに来た祖父に,橋の下は危ないと叱られて,岸に上がったすぐ後に,上流からどっと濁った水が流れて来て,びっくりしたものだった。祖父のお迎えがなかったら,あの時私は濁流にのまれて死んでしまっていただろう。長いこと生きてきたが,このことはよい教訓として一生忘れることのない体験となったものである。成人して住んだ国立(くにたち)や甲府とか,今の新百合ヶ丘には,近くに川がないので,そういう目に遭うことはなく,子供の頃,あのような経験をしたことは,貴重なことだったのだなと,今になって思い返している。
そうそう,今思い出したのだが,結婚して,夫の住む今の地――その頃は小田急線の「新百合ヶ丘」という駅は,まだ出来ておらず,百合ヶ丘の次が柿生駅で,柿生駅のすぐ近くの小山というか,丘の上にあった家に住むことになったのだが,(画家であった舅の画室が新婚の私達の新居として与えられたのである。)百合ヶ丘・柿生間の駅間がずいぶん長く,30分位あるかと思う程。それまで東京の荻窪に住んでいた身にはびっくりすることばかりであった。
すごい田舎で,お店も魚屋と雑貨屋があるくらい。肉屋さんもパン屋さんも本屋さんも無く,見渡す限りの畠,畠。何という所に来てしまったのかと思ったが,後悔先に立たず。当時は教育も旧制度で,(新制度の大学は二年ほどあとからはじまったのである。)女性は数えるほど。大学に進む女は余程の変わり者,女らしくない女ということだったのだろう。私の母もお隣の奥様から「もう雅子さんは結婚は出来ませんね」と言われたそうである。研究室でも女性は三人ほど。男子は七人位は居たと思う。この頃の女三人というのは,ずいぶん多かったのだと思われる。その女性の友はだいぶ前に亡くなって一人生き残っている私は,ボケて何もできず,情けない日々を送っている。(お恥ずかしい限りでございます。)
ここまで書いて読み返して思ったのだが,私は一体だらだらと何を言おうとして書いていたのだろう,ということ。前に記したと同じ事を,繰り返し書いているだけで,ボケるということはこういう状態をいうのですよと皆さんにお知らせしているだけだったのでしょうね。以前に書いていた文章などと比べてみれば分かるだろうということ。今,私に残っている友人は,女子大時代のたった一人になってしまった。去年,女学校時代の残っていた一人が亡くなって,皆が私の来るのを待っているのでしょう。自分でも,ただダラダラと下手な文章を書き連ねたのを申し訳なく思います。もうじき姿を消す者の言葉としてお許しください。いつも読んでくださってありがとうございました。どうぞ皆々様には末永くお元気で,お幸せにお過ごしくださいませ。