本物語
第78号 2024.3.31
宇治の文学碑を歩く( その11)
岡本 崇
2020年11月1日,堺市から来られた坂東氏と,10時40分にJR小倉駅で合流。 タクシーで,宇治徳洲会病院の北側の宇治市槙島町にある,浄土真宗大谷派の皆(かい)演(えん)寺(じ)へ行く。この寺へ種田山頭火の句碑を寄贈したのは,東本願寺に畳を入れる仕事をしていた方で山頭火が大好きな人だったらしい。その寄贈された句碑は宇治市で詠んだものではなく,下関市川棚温泉で詠んだ句である。我々が行った同じ11月1日に安倍晋三元総理が父の墓参をしたと云われるが,安倍家の墓のある長門市から30km南の海沿いに川棚温泉がある。山頭火はそこが大変気に入って結庵しようと2か月間滞在するも実らず,1938年,山口市湯田温泉街に草庵を結んだ。山頭火の故里,防府市は、私の学友の木村青々君の故郷,周南市から西へ20km位の所だが,そこからさらに西へ70km行った所が川棚温泉である。私は2008年にここで木村君と宿泊したことがある。
●「花いばら ここの土と なろうよ」 山頭火 (1882~1940年)
「下関市川棚は山裾に丘陵を巡らして、私の最も好きな場所である。私は死に場所を此処にこしらえよう」と「行乞記」の1932年(昭和7年)6月21日の記述にこの句が記されている。山頭火の好む風景の川棚の地で,「花いばら」を見て,安住の草庵を得られる安らぎの心を詠んだもの。1939年、松山市御幸に移住し「一草庵」を結庵。「ひょいと四国へ晴れきってゐる」。1940年10月11日,脳溢血で逝去。58歳。私の学友の脇君の住む家から北へ6kmの所。私が木津川市に移転する前に一時住んでいた所の隣町の,和歌山県橋本市御幸辻は天皇の行幸が相次いだ所だったといわれるが、「一草庵」のあった「御幸」という地名は,舒明天皇の道後温泉行幸に由来する。
●衣手の 名木の川辺を 春雨に われ立ち濡ると 家念(おも)ふらむか
宇治市伊勢田町砂田の砂田第一児童公園内に万葉歌碑がある。衣手は名木にかかる枕詞。「名木川のほとりで私が春雨に濡れて立っていると今ごろ家の者は思っているだろうか」。昭和13年、巨(お)椋(ぐら)池干拓事業で,昔の名木川は無くなったが,この辺りを流れて巨椋池に注ぐ川があった。昭和48年頃、この辺りは更に宅地化が進んだ。 作者は柿本人麻呂(662~710年)と云われる。
山頭火が生まれる19年前の1863年に,私の故郷の奈良県五條市で明治維新の魁と云われる,「天誅組の変」が勃発した。中山忠光卿を主将にして,徳川幕府を倒す為に挙兵されたが失敗して,十津川村方面へ敗走することになった。
奈良県東吉野村から脱出した天誅組主将中山忠光卿は,長州藩大坂屋敷に逃げ込み,そこから長府・下関・響灘・長門などを転々とし,最後は,豊浦郡田( た)耕(すき)村(むら)で暗殺されるのだが,そこは,山頭火が大好きだった下関市の川棚温泉の北方17kmの所だった。
私の学友で寮生仲間だった木村青々君が山口県に帰省していたので,2008年に彼と二人で川棚温泉に1泊して,中山忠光卿の逃亡ルートなどを,彼の車で探索したことがある。中山忠光卿が暗殺された後で生まれた女児は侯爵嵯峨公勝に嫁ぎ,その長男の娘,浩(ひろ)が昭和12年に満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟,愛新覚羅溥(ふ)傑(けつ)と結婚。「流転の王妃」として有名だが,浩の長女,愛新覚羅慧生が学習院大学の学友と天城山でピストル心中したのは昭和32年だった。
天誅組は高取城攻撃に失敗した後,西吉野町の白銀岳(銀峯山)に本陣を置いて,山の中腹の岡本家で中山忠光卿たちが宿泊した。その時の「賊徒(徳川幕府)を倒したら褒章を取らせる」と云う中山忠光卿の証文がある。今は「賀名生の里歴史民俗資料館」に鎧兜や,刀剣と共に寄託展示しているが,その証文や,銀峯山周辺の詳しい地図などが,実録「天誅組の変」(舟久保藍 著 ㈱淡交社)に掲載されている。
私の大学時代の恩師,樋口清之先生の祖父は,天誅組の志士として高取城攻撃に参戦して敗走。鹿児島に逃げて宮部から樋口と名前を変えたとお聞きしている。
柿本人麻呂の頃から記載のある,私の家の古い系図が出て来たので,昨年末,小冊子に纏めた。「ゆい偉人館 千葉常胤」とGoogleなどで検索すると,天誅組のことも,樋口先生のことも,中山忠光卿の証文のこともご覧いただける。私の23代前の東胤行は藤原定家の孫を娶り,17代前の東常縁は宗祇に古今伝授をしていたし,14代前の祖東行澄は愛宕山の愛宕百韻では執筆を務めていたらしい。(続く)
●「花いばら ここの土と なろうよ」 山頭火 (1882~1940年)
「下関市川棚は山裾に丘陵を巡らして、私の最も好きな場所である。私は死に場所を此処にこしらえよう」と「行乞記」の1932年(昭和7年)6月21日の記述にこの句が記されている。山頭火の好む風景の川棚の地で,「花いばら」を見て,安住の草庵を得られる安らぎの心を詠んだもの。1939年、松山市御幸に移住し「一草庵」を結庵。「ひょいと四国へ晴れきってゐる」。1940年10月11日,脳溢血で逝去。58歳。私の学友の脇君の住む家から北へ6kmの所。私が木津川市に移転する前に一時住んでいた所の隣町の,和歌山県橋本市御幸辻は天皇の行幸が相次いだ所だったといわれるが、「一草庵」のあった「御幸」という地名は,舒明天皇の道後温泉行幸に由来する。
●衣手の 名木の川辺を 春雨に われ立ち濡ると 家念(おも)ふらむか
宇治市伊勢田町砂田の砂田第一児童公園内に万葉歌碑がある。衣手は名木にかかる枕詞。「名木川のほとりで私が春雨に濡れて立っていると今ごろ家の者は思っているだろうか」。昭和13年、巨(お)椋(ぐら)池干拓事業で,昔の名木川は無くなったが,この辺りを流れて巨椋池に注ぐ川があった。昭和48年頃、この辺りは更に宅地化が進んだ。 作者は柿本人麻呂(662~710年)と云われる。
山頭火が生まれる19年前の1863年に,私の故郷の奈良県五條市で明治維新の魁と云われる,「天誅組の変」が勃発した。中山忠光卿を主将にして,徳川幕府を倒す為に挙兵されたが失敗して,十津川村方面へ敗走することになった。
奈良県東吉野村から脱出した天誅組主将中山忠光卿は,長州藩大坂屋敷に逃げ込み,そこから長府・下関・響灘・長門などを転々とし,最後は,豊浦郡田( た)耕(すき)村(むら)で暗殺されるのだが,そこは,山頭火が大好きだった下関市の川棚温泉の北方17kmの所だった。
私の学友で寮生仲間だった木村青々君が山口県に帰省していたので,2008年に彼と二人で川棚温泉に1泊して,中山忠光卿の逃亡ルートなどを,彼の車で探索したことがある。中山忠光卿が暗殺された後で生まれた女児は侯爵嵯峨公勝に嫁ぎ,その長男の娘,浩(ひろ)が昭和12年に満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟,愛新覚羅溥(ふ)傑(けつ)と結婚。「流転の王妃」として有名だが,浩の長女,愛新覚羅慧生が学習院大学の学友と天城山でピストル心中したのは昭和32年だった。
天誅組は高取城攻撃に失敗した後,西吉野町の白銀岳(銀峯山)に本陣を置いて,山の中腹の岡本家で中山忠光卿たちが宿泊した。その時の「賊徒(徳川幕府)を倒したら褒章を取らせる」と云う中山忠光卿の証文がある。今は「賀名生の里歴史民俗資料館」に鎧兜や,刀剣と共に寄託展示しているが,その証文や,銀峯山周辺の詳しい地図などが,実録「天誅組の変」(舟久保藍 著 ㈱淡交社)に掲載されている。
私の大学時代の恩師,樋口清之先生の祖父は,天誅組の志士として高取城攻撃に参戦して敗走。鹿児島に逃げて宮部から樋口と名前を変えたとお聞きしている。
柿本人麻呂の頃から記載のある,私の家の古い系図が出て来たので,昨年末,小冊子に纏めた。「ゆい偉人館 千葉常胤」とGoogleなどで検索すると,天誅組のことも,樋口先生のことも,中山忠光卿の証文のこともご覧いただける。私の23代前の東胤行は藤原定家の孫を娶り,17代前の東常縁は宗祇に古今伝授をしていたし,14代前の祖東行澄は愛宕山の愛宕百韻では執筆を務めていたらしい。(続く)