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本物語

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第79号 2024.7.25

〈花物語〉   石 楠 花

小櫃 蒼平

そのひと ― 小説家井上靖の「比良のシャクナゲ」で,わたしはこの花を識った。ツツジ科に属す常緑低木で,初夏ツツジに似た白色ないし淡紅色の合弁花を多数開く。主人公はたしか比良山中の谷あいに群生している石楠花をみるという願いを果たせなかったが,わたしは近所の公園に数株ある花を見ることで,その季節の到来を楽しみにしている。
 井上靖は,ジャンルでは所謂純文学から新聞小説まで,素材では古代から現代まで幅広く作品を書いたが,ストーリテラーとして天性のものがあり,生前多くの愛読者がいた。それらの作品の底につねに「孤独」な翳りがあって,わたしはこの小説家はもっと深いところで読まれるべきだと思っている。そこでかれが亡くなったときに,かれの言葉を藉りて一片の詩もどきをつくり,哀悼の気持ちをあらわした。
「雪山に春のはじめの滝こだま」 ― 立春も近い一日,若き日に、四季で一番好きなのは夏だ、といった小説家が  
 死んだ。山を愛し、シルクロードを愛し、多くの愛すべき人間にふれ、日本のそこここを愛し、それらから多くの
 作品を紡ぎ出した小説家は、しかしものを書きはじめた当初からすでに「生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、冷
 たく武装しなければならなかった」孤独な言葉の猟人であった。小説家は多くの読者をもったが、ついに魂のシル
 クロードを読者とともにもつことはなかった。小説家の歩いた道は、小説家みずからの物語の中で利休に歩かせた 
 「冷え枯れた碩の道」、「余人の誰もが踏み込めようとは思われぬ、一木一草とてない、長い長い小石の淋しい
 道」であった。その道の尽きるところで、小説家は「ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終
 焉の驚くべき清潔さ」で静かに姿を消した。
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