本物語
第79号 2024.7.25
宇治の文学碑を歩く( その12)
岡本 崇
小西亘先生の「宇治の文学碑を歩く」という本を持って坂東史朗氏と二人で文学碑巡りを楽しんだが,2021年1月15日の午後は,宇治市志津川の因性寺を,1月16日の午後は,宇治市槙島町門口の矢野秋色の歌碑を私一人で訪ねた。
矢野秋色の句碑のある所から1㎞程,南に行くとユニチカ宇治工場がある。坂東氏は元ユニチカの社員だったからここで研修したと聞くが,私が昭和39年に伊藤忠商事に入社した時もこの工場を全員で見学していた。両社は一時,御堂筋の南御堂の横のツインタワービルで同じだったが,坂東氏を初めて知ったのは,私が東京本社に居た,昭和48年に大阪から東京へ課長として転勤して来られた時であった。それ以来半世紀以上,親しくお付き合いをさせてもらってきた。最近20年間位は,私の本籍地である奈良県五條市西吉野町の柿畑で毎週1度は柿の栽培などを楽しんできた。娘さんご夫妻と,二人のお孫さん達も柿の収穫に来られたことがあった。ところが,坂東史朗氏はこの記事を書いている2024年6月26日に享年87歳で逝去された。坂東氏のことを思い出してはご冥福をお祈りしているところである。
●「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」 法然
宇治市志津川の浄土宗因性寺にある法然上人の歌碑。小西先生の本には,「…仏を信じ救いを求める人こそが救われるのであるという真意を含んだものとして解すべきである」とある。木津川畔で斬首された平重衡は法然上人との対面を求め,教えを乞うている。JR木津川駅近くの浄土宗安福寺には重衡の墓と伝えられる十三重石塔もある。哀堂(あわんどう)が公開されるのは7月23日の命日法要「重衡忌」の時。
●「干拓の 七百町歩 行々子」 秋色
矢野秋色(宇治市の俳人・1998年に92歳で寂)の句。行々子(ぎょうぎょうし)はヨシキリの別名。ヨシキリは5月に渡来する渡り鳥で,季語は夏。巨( お)椋(ぐら)池(いけ)は700町歩(甲子園の200倍)あったが,秋色が26歳~66歳の頃,40年かけて干拓されてベッドタウンになった。ヨシキリの鳴く声を聴きながら,歴史を想い感慨深く詠んだのであろう。この辺りは西日本有数のヨシの群落だった。
以上で「宇治の文学碑を歩く」の連載を終わるが,小西先生のこの本の最後に東義久(小説家)氏の寄せ書きがあった。東という苗字を見て思い出したのだが,30年前に私の家の家系図が蔵から出て来て,それには先祖の名前が,岡本→大東→東→千葉常胤と詳細に書かれていた。余談になるが,「ゆい偉人館」管理責任者の青木豊君がそれを知って,「ゆい偉人館 千葉常胤」という小冊子を執筆させてくれ,電子書籍で出版してくれた。有難いことにPCでも見られるし,スマホでも読むことが出来る。但し,スマホの場合は,Googleに「ゆい偉人館 千葉常胤」→出てくる本の表紙をタッチ→右上の「GoToPC版」をタッチ すれば全文が読める。この本の一番のポイントは,本能寺の変の前日,愛宕山で明智光秀によって張行された「愛宕百韻」で執筆を務めた東行澄が「古今伝授」で有名な東常縁の曾孫であるということが立証されたことである。大東市の勝福寺も看板には地元の有力な農民が創建した寺と書かれているが,東行澄の二人の息子がそこで帰農して勝福寺という菩提寺を建て先祖をお祀りしたという事実の立証でもある。「千葉一族の歴史」という,素晴らしい本の著者,鈴木(すずき)佐(たすく)氏も,関西のことは書き漏らしていたと,新事実を知ってこちらにわざわざお越しいただき,現地を見学して喜んで下さった。
岐阜県郡上市大和町の「古今伝授の里」には,群馬県高崎市の妙見社から勧請した,明建神社があるが,そこで,私の17代前の先祖になる,東常縁が宗祇に古今伝授をした。私の24代前の祖,東重胤が定家に歌を学んでいたし,23代前の祖,東胤行は藤原定家の孫を娶っている。「源氏物語 宇治十帖」は有名だが,定家は源氏物語を写本している。松尾芭蕉は,宗祇を大変尊敬していた。私が高崎経済大学を出て,伊藤忠商事に入社して,1か月間は大阪で研修を受けた。そのときに,宇治市のユニチカ宇治工場を見学した。当時はニチレと云っていたが,ニチボーと合併して,ユナイテッド・ニチレ・ニチボーカンパニーの頭文字を取ってユニチカ㈱となった。私の最初の勤務地は金沢支店であったが,支店のあった北国ビルは,芭蕉が泊まった宮竹旅館の跡地であったし,本町の東京本社へ転勤した時も,芭蕉が住んでいた地であり,私が住んでいた音羽の近くには関口芭蕉庵があった。私が最後に通勤した御堂筋の大阪本社の前が,なんと松尾芭蕉終焉の地であった。
次回は最近,87歳の姉と姪の3人で岐阜県にある「古今伝授の里」を訪問した時の,レポートを読んでいただきたいと思う。(完)
矢野秋色の句碑のある所から1㎞程,南に行くとユニチカ宇治工場がある。坂東氏は元ユニチカの社員だったからここで研修したと聞くが,私が昭和39年に伊藤忠商事に入社した時もこの工場を全員で見学していた。両社は一時,御堂筋の南御堂の横のツインタワービルで同じだったが,坂東氏を初めて知ったのは,私が東京本社に居た,昭和48年に大阪から東京へ課長として転勤して来られた時であった。それ以来半世紀以上,親しくお付き合いをさせてもらってきた。最近20年間位は,私の本籍地である奈良県五條市西吉野町の柿畑で毎週1度は柿の栽培などを楽しんできた。娘さんご夫妻と,二人のお孫さん達も柿の収穫に来られたことがあった。ところが,坂東史朗氏はこの記事を書いている2024年6月26日に享年87歳で逝去された。坂東氏のことを思い出してはご冥福をお祈りしているところである。
●「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」 法然
宇治市志津川の浄土宗因性寺にある法然上人の歌碑。小西先生の本には,「…仏を信じ救いを求める人こそが救われるのであるという真意を含んだものとして解すべきである」とある。木津川畔で斬首された平重衡は法然上人との対面を求め,教えを乞うている。JR木津川駅近くの浄土宗安福寺には重衡の墓と伝えられる十三重石塔もある。哀堂(あわんどう)が公開されるのは7月23日の命日法要「重衡忌」の時。
●「干拓の 七百町歩 行々子」 秋色
矢野秋色(宇治市の俳人・1998年に92歳で寂)の句。行々子(ぎょうぎょうし)はヨシキリの別名。ヨシキリは5月に渡来する渡り鳥で,季語は夏。巨( お)椋(ぐら)池(いけ)は700町歩(甲子園の200倍)あったが,秋色が26歳~66歳の頃,40年かけて干拓されてベッドタウンになった。ヨシキリの鳴く声を聴きながら,歴史を想い感慨深く詠んだのであろう。この辺りは西日本有数のヨシの群落だった。
以上で「宇治の文学碑を歩く」の連載を終わるが,小西先生のこの本の最後に東義久(小説家)氏の寄せ書きがあった。東という苗字を見て思い出したのだが,30年前に私の家の家系図が蔵から出て来て,それには先祖の名前が,岡本→大東→東→千葉常胤と詳細に書かれていた。余談になるが,「ゆい偉人館」管理責任者の青木豊君がそれを知って,「ゆい偉人館 千葉常胤」という小冊子を執筆させてくれ,電子書籍で出版してくれた。有難いことにPCでも見られるし,スマホでも読むことが出来る。但し,スマホの場合は,Googleに「ゆい偉人館 千葉常胤」→出てくる本の表紙をタッチ→右上の「GoToPC版」をタッチ すれば全文が読める。この本の一番のポイントは,本能寺の変の前日,愛宕山で明智光秀によって張行された「愛宕百韻」で執筆を務めた東行澄が「古今伝授」で有名な東常縁の曾孫であるということが立証されたことである。大東市の勝福寺も看板には地元の有力な農民が創建した寺と書かれているが,東行澄の二人の息子がそこで帰農して勝福寺という菩提寺を建て先祖をお祀りしたという事実の立証でもある。「千葉一族の歴史」という,素晴らしい本の著者,鈴木(すずき)佐(たすく)氏も,関西のことは書き漏らしていたと,新事実を知ってこちらにわざわざお越しいただき,現地を見学して喜んで下さった。
岐阜県郡上市大和町の「古今伝授の里」には,群馬県高崎市の妙見社から勧請した,明建神社があるが,そこで,私の17代前の先祖になる,東常縁が宗祇に古今伝授をした。私の24代前の祖,東重胤が定家に歌を学んでいたし,23代前の祖,東胤行は藤原定家の孫を娶っている。「源氏物語 宇治十帖」は有名だが,定家は源氏物語を写本している。松尾芭蕉は,宗祇を大変尊敬していた。私が高崎経済大学を出て,伊藤忠商事に入社して,1か月間は大阪で研修を受けた。そのときに,宇治市のユニチカ宇治工場を見学した。当時はニチレと云っていたが,ニチボーと合併して,ユナイテッド・ニチレ・ニチボーカンパニーの頭文字を取ってユニチカ㈱となった。私の最初の勤務地は金沢支店であったが,支店のあった北国ビルは,芭蕉が泊まった宮竹旅館の跡地であったし,本町の東京本社へ転勤した時も,芭蕉が住んでいた地であり,私が住んでいた音羽の近くには関口芭蕉庵があった。私が最後に通勤した御堂筋の大阪本社の前が,なんと松尾芭蕉終焉の地であった。
次回は最近,87歳の姉と姪の3人で岐阜県にある「古今伝授の里」を訪問した時の,レポートを読んでいただきたいと思う。(完)