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本物語

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第79号 2024.7.25

祖父が残してくれたもの

木村 祭氏

 「森本老母 八十八歳記念 大正七年参月吉日」と書かれた一枚の古い写真が,呉市蒲刈町にある私の実家の欄間に昔からかけてあった。総勢九十二名の写真である。森本家と親戚関係にあるとは聞いていたものの,だれが森本老母かもわからず,写っている人は私から見ると知らない人ばかりである。ちなみに,私の父は大正十一年生まれで,この写真は父が生まれる前のものであり,全く興味はなかった。
 ところが今から7~8年前,この写真に色付けしたらよいのではという話が持ち上がった。そこで早速,実家から広島へ持ち帰ったところ,額の内側から折りたたまれた古い一枚のカレンダーが出てきた。その裏には正方形の小さなマスが線引きされ,その中に番号と名前がたくさん書かれていた。よくよく見ると,「昭和四十年九月十四日得憐覚書込み」とあり,私の祖父が六十七歳の時に記入したものであった。
 写真は祖父から見ては母方の祖母米寿の記念写真であり,私の曽祖父五十九歳,曾祖母五十六歳,祖父二十歳の時のものであることが分かった。
 写真は,おそらく森本家の庭で撮られたものと思われる。けれども,その時点では「祖父が知っている人の名前を記入しているのだろう」という程度の気持ちしかなかった。しかし,この写真に添えられたメモのおかげで先祖のことが少し分かり,興味が湧いてきたのも事実である。

 こうして,平成28年頃から墓参りの折に,先祖の墓石に刻まれた文字を写真に収めるようになった。しかし文字を読み解こうとするものの,なかなか読み取れるものでなかった。それでも比較的彫りの深い文字があり,読み解いてみると,
 享保十八丑(うし) 七月廿三日 久保田父久左衛門
 寛保二戌(いぬ) 十二月十七日 久左衛門
 寛政二戌(いぬ) 七月廿八日 久助
 元治元子(ねずみ) 十月 久左衛門立
 これらの干支の文字については,当初「年(ねん)」であるに違いないと思いながらも,どうしても「年」と読めず,彫り込まれた溝が長い年月を経て,削れたり埋まったりしたのではないか?という認識であった。
 そんな中,「折角読める文字もあるのだから……」ということで,呉市川尻町の光明
寺様に妻と相談に伺ったのが令和元年6月であった。(その時は,まだ「丑」という漢字は読めず,「年」だと思い込んでいた。) 相談すると,光明寺のお嬢様が,「近々,京都に行くので調べてきてあげる」とおっしゃって下さった。そして幸いなことに,享保十八年に死去した久保田 父久左衛門の戒名が「釈道閑」であることが分かった。この光明寺のお骨折りがなかったとしたら,享保十八年に亡くなったとされる先祖の「久保田 父久左衛門」が本当に存在したのかどうかさえ,半信半疑であったと思う。   それにしても,本願寺には凄い記録が残っているものだと感銘を受けた。改めて今,
一、写真の内側に祖父の書いたメモがなかったとしたら
一、元治元年に建立された墓石の三人の久左衛門の文字がはっきり読めなかったら
一、呉市川尻町光明寺のお嬢様のお骨折りがなかったとしたら
 その他,いくつもの「もし……」が重なってのことと思うが,これら沢山の「もし……」に,縁というものを感じるのである。 と同時に,一つの墓石に享保・寛保・元治と三代も残っている「久左衛門」という名前に,強い愛着と親近感,深い感謝の念を覚えた。最近分かったことだが,高祖父の久左衛門については,明治十二年~十六年迄,人民総代を務めていたと聞く。それなりに存在感のある人物だったのだろう。

 ところで,わが家の屋号「久保屋」については,安政六(1859)年生まれの曽祖父が,本家の「久保田屋」より分家,独立してから始まったものだ。幼いころから,「久保のお孫さんですよね。」とよく言われてきた。久左衛門の名前については,少なくとも江戸初期 徳川家綱時代より続いていると推測され,大切にしたいと思っている。
 歌舞伎では「成田屋!」「中村屋!」といった掛け声がかかったりする。過去に2度ほど観にいったことがあるが,屋号で呼びかけられるのは,かっこいいなと思った。漫画「花の慶次」のようにはいかないが,歌舞いてみるのも悪くない。「久保屋 木村久左衛門」 久左衛門の復活を先祖もきっと喜んでくれると思う。
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