本物語
第79号 2024.7.25
「年間365個」の超多産鶏を産出した養鶏家
小西 忠人
ニワトリの「卵黄がピーマンの苦みを抑制する可能性がある」と,「たまご」の“万能”ぶりが記事にあったが,この「たまご」のことで,本県(岩手)の養鶏家が世界最初の「1年無休365個」という超多産鶏を産出した。それが85年前。ご本人からすれば「今さら…」とあの世で苦笑されそうだが,「鶏と卵」に挑んだ人生を見つめたい。
手軽で簡単、生のままでもよしで,和食,洋食,中華といったいろんな料理の食材にもオファーが入る忙しい「たまご」である。それもこれもタンパク質、ビタミンなどと良質な栄養素が詰まっていればこその強みで,しかも安定した価格で「物価の優等生」ともいわれてきた。そんなマルチタイプはピーマンに限らず,この先もあらゆる分野で力量発揮、となろうか。まことに有り難い存在だ。
そうはいっても,これまで安定価格を維持してきた生産現場(採卵鶏農場)が抱える厳しい実情が伝えられていた。ニワトリの餌となる穀物価格の上昇(円安やロシアのウクライナ侵攻などによる)で生産規模が縮小され,そこに追い打ちを掛けたのが全国で猛威を振るった鳥インフルエンザ感染拡大で,ニワトリなど殺処分された数は過去最多の17,000羽以上だったと報告された。その処置で生産量が一段と落ち込んだことと,規模縮小等で価格高騰を避けられない実情にあった。私たちが生のままのたまごを食べられることも,「物価の優等生」であり続けていたことも,生産現場の徹底した衛生・品質管理とたゆまぬ努力があってのことであり,改めて生産現場の実情を思い知らされる。
そうした生産現場にかかわってくるのが,明治25年,紫波町に生まれた橋本善太で,家業の養蚕を引き継ぐ傍ら農政活動を推進する地方政治家でもあった。同郷の先輩格には「銭形平次」を27年間一度も休むことなく書き続けた野村胡堂がいる。胡堂は時代小説「作家」として盛名をはせ,片や(橋本)善太は「食」の安定に意を注ぎ,付いた異名は「研究の鬼」。橋本とニワトリの出合いは,少年時代に実家で飼育していたシャモを「なんじょして(どのようにして)強ぐ育てたら勝つべがー」。この「なんじょして」が,のちの橋本を世界へ発信していく“おらが原動力”に。盛岡農学校在学中も,陸軍騎兵連隊生活の間でも改良一点に思いを重ね,胡堂が自分自身を「人間は一生に一度ぐらい,滅茶苦茶の糞勉強をする期間があってもよいと,私は今も信じている」と青春時代を回想しているが,胡堂の弁を橋本の青春時代の行動に当てはめれば「糞勉強」そのものだったという。実験のために貴重なニワトリを何羽となく犠牲にした。そんな橋本を,とかく白眼視する周りの口は「大事な鳥っこを殺して,少しこご(頭)がおがしぐなったんでねえべが」。そんなやゆが橋本青年に付いて回った話は数知れず。こう言った話は、才知を生み出していった偉材の軌跡ではないか。
私は,紫波町立図書館から橋本記述の「365卵鶏作出秘法ニ付イテ」の一部分をコピーしてもらった。そのさわりを紹介するとこうである。「観察による多産性の分析」の箇所に「通産性と持続性との遺伝を、多数の鶏の繁殖を系統的に観察しますと、性決定染色体とされているZ染色体中に通産性を発現する作用中心があり、一方持続性はZ染色体以外の常染色体、すなわちA染色体群中の、いずれかの染色体の中に存在する作用中心によって発現されるものと考えられます」とある。言っていることは多産鶏の育成と交配強勢をZ,○Z,A,○Aの記号をふんだんに駆使しての論証のようだ。「ようだ」と言うのは単に私が“それ”に付いていけないだけの話であって,橋本はこうした記号を自在に駆使し,そして組み立て,遂には「鶏の多産性は遺伝的に単純なものでなく―」と確信を持って記述しているわけだ。
“国民病”といわれた結核がまん延した昭和初期。国民の体力を増進する「栄養源」としての多産鶏改良に養鶏関係者の間で喫緊の課題となった。一方,国は「産卵オリンピック」を展開し,橋本をはじめ国内外の養鶏研究者らに独自理論を促した。それが昭和14年,橋本47歳。彼の白色レグホン(卵用種)が「1年無休365個」の超多産鶏を産出し,ここに初めて世界へ「ミスター・ハシモト」の実力を証明してみせる。
さらに26年10月。東京種鶏研究会での産卵検定では黄斑プリマスロック(卵肉用種)と白色レグホンそれぞれ2羽が年中無休365個産卵を記録する。これまで肉用種とされたロックでの快挙も世界初。「卵肉兼用種」と認定された改良種は(橋本)善太の名を冠して「ゼンタックス」。名付け親は時の県知事国分謙吉で,今にその名が残る。
同町の小中学校は,全国学校給食週間(1月24日~30日)に合わせて毎年24日には,地域と連携して親子で「たまご料理」などの特別授業が行われている。橋本の偉業での授業ゆえ,将来,橋本を超える超ド級多産鶏を産出する「研究の鬼」も出てこようか。昭和31年7月23日死去。食文化の一翼を担った65年の人生だった―。
手軽で簡単、生のままでもよしで,和食,洋食,中華といったいろんな料理の食材にもオファーが入る忙しい「たまご」である。それもこれもタンパク質、ビタミンなどと良質な栄養素が詰まっていればこその強みで,しかも安定した価格で「物価の優等生」ともいわれてきた。そんなマルチタイプはピーマンに限らず,この先もあらゆる分野で力量発揮、となろうか。まことに有り難い存在だ。
そうはいっても,これまで安定価格を維持してきた生産現場(採卵鶏農場)が抱える厳しい実情が伝えられていた。ニワトリの餌となる穀物価格の上昇(円安やロシアのウクライナ侵攻などによる)で生産規模が縮小され,そこに追い打ちを掛けたのが全国で猛威を振るった鳥インフルエンザ感染拡大で,ニワトリなど殺処分された数は過去最多の17,000羽以上だったと報告された。その処置で生産量が一段と落ち込んだことと,規模縮小等で価格高騰を避けられない実情にあった。私たちが生のままのたまごを食べられることも,「物価の優等生」であり続けていたことも,生産現場の徹底した衛生・品質管理とたゆまぬ努力があってのことであり,改めて生産現場の実情を思い知らされる。
そうした生産現場にかかわってくるのが,明治25年,紫波町に生まれた橋本善太で,家業の養蚕を引き継ぐ傍ら農政活動を推進する地方政治家でもあった。同郷の先輩格には「銭形平次」を27年間一度も休むことなく書き続けた野村胡堂がいる。胡堂は時代小説「作家」として盛名をはせ,片や(橋本)善太は「食」の安定に意を注ぎ,付いた異名は「研究の鬼」。橋本とニワトリの出合いは,少年時代に実家で飼育していたシャモを「なんじょして(どのようにして)強ぐ育てたら勝つべがー」。この「なんじょして」が,のちの橋本を世界へ発信していく“おらが原動力”に。盛岡農学校在学中も,陸軍騎兵連隊生活の間でも改良一点に思いを重ね,胡堂が自分自身を「人間は一生に一度ぐらい,滅茶苦茶の糞勉強をする期間があってもよいと,私は今も信じている」と青春時代を回想しているが,胡堂の弁を橋本の青春時代の行動に当てはめれば「糞勉強」そのものだったという。実験のために貴重なニワトリを何羽となく犠牲にした。そんな橋本を,とかく白眼視する周りの口は「大事な鳥っこを殺して,少しこご(頭)がおがしぐなったんでねえべが」。そんなやゆが橋本青年に付いて回った話は数知れず。こう言った話は、才知を生み出していった偉材の軌跡ではないか。
私は,紫波町立図書館から橋本記述の「365卵鶏作出秘法ニ付イテ」の一部分をコピーしてもらった。そのさわりを紹介するとこうである。「観察による多産性の分析」の箇所に「通産性と持続性との遺伝を、多数の鶏の繁殖を系統的に観察しますと、性決定染色体とされているZ染色体中に通産性を発現する作用中心があり、一方持続性はZ染色体以外の常染色体、すなわちA染色体群中の、いずれかの染色体の中に存在する作用中心によって発現されるものと考えられます」とある。言っていることは多産鶏の育成と交配強勢をZ,○Z,A,○Aの記号をふんだんに駆使しての論証のようだ。「ようだ」と言うのは単に私が“それ”に付いていけないだけの話であって,橋本はこうした記号を自在に駆使し,そして組み立て,遂には「鶏の多産性は遺伝的に単純なものでなく―」と確信を持って記述しているわけだ。
“国民病”といわれた結核がまん延した昭和初期。国民の体力を増進する「栄養源」としての多産鶏改良に養鶏関係者の間で喫緊の課題となった。一方,国は「産卵オリンピック」を展開し,橋本をはじめ国内外の養鶏研究者らに独自理論を促した。それが昭和14年,橋本47歳。彼の白色レグホン(卵用種)が「1年無休365個」の超多産鶏を産出し,ここに初めて世界へ「ミスター・ハシモト」の実力を証明してみせる。
さらに26年10月。東京種鶏研究会での産卵検定では黄斑プリマスロック(卵肉用種)と白色レグホンそれぞれ2羽が年中無休365個産卵を記録する。これまで肉用種とされたロックでの快挙も世界初。「卵肉兼用種」と認定された改良種は(橋本)善太の名を冠して「ゼンタックス」。名付け親は時の県知事国分謙吉で,今にその名が残る。
同町の小中学校は,全国学校給食週間(1月24日~30日)に合わせて毎年24日には,地域と連携して親子で「たまご料理」などの特別授業が行われている。橋本の偉業での授業ゆえ,将来,橋本を超える超ド級多産鶏を産出する「研究の鬼」も出てこようか。昭和31年7月23日死去。食文化の一翼を担った65年の人生だった―。