本物語
第80号 2024.11.25
私の3.11と気仙沼市の復興
小野寺 晟一郎
地震列島日本。今年は新春早々に能登半島を震源とする地震津波が発生し,多数の方々が亡くなりました。心から,犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
今年の3月11日で東日本大震災から13年。私の3.11の記憶を呼び戻し,併せてこの13年を振り返ってみます。
あの大震災の当時,私はタクシーの運転手を職業としていて,当日の午後2時30分過ぎからJR大船渡線気仙沼駅前にて待機中でした。そしてその2時46分,忘れもしないあの地響き。直後,車が飛び上がる衝撃の縦揺れに車外に逃げて地に伏し,揺れを過して車に戻り,とっさに思ったのは川口町で働く妻の事。防災棟からは,けたたましいサイレンと津波警報が流れ,波の高さは5mとくり返す。即座に車を川口町へと走らせる。予報が変わり10mとくり返す。走り乍ら間に合うかなと不安に。携帯電話でコールすると応答あり。会社の車で全員が避難所の市民会館へ無事避難と聞きひと安心。妻達は運転手の機転でいつもなら通るはずの道は渋滞になるだろうと別ルートを走ったという。次は自宅の事が心配で市役所前でUターンし裏街道基幹農道方面へと向う道を南下,ゴルフ場下で左折,階上(はしかみ)中学前まで来るとそこから見える大海原には真白な波が押し寄せて来る様が目に入る。家に着いて家族に避難の指示をし,妻が避難している市民会館に向かって家を出たら50m前の道まで波が到達。再度妻へコールすると応答あり。迎えに行くと告げて農道を北上する。その間にも業務無線から情報が流れて被害の大きさが伝わってくる。携帯電話で二度の応答ができたことの不思議と妻たちのドライバーの機転に感謝しながら避難所へ向かう。避難所まで700~800m,海抜約20mの三日町まで波が到達。途中で進行出来ないと警備員に制止されるも,お客様が待っているからとお願いして瓦礫の中を突き進む。市民会館に着くと妻達が玄関前で待って居て3人が乗車。帰ろうとすると警備員が進行出来ないと言う。今来たのだから通してと願って帰路に就く。農道を経て長磯で妻以外の2名が下車,自宅で妻を降ろして再び会社に向う。到着すると2名のお客さんが待っていた。一人は長磯まで,一人は歌津までと言う。また農道を南下し長磯に向かう。走り続けると道をふさぐ様に家が流れて来ている所があった。一人のお客さんが,「あっ私の家だ,父が居るはずだ」と下車し自宅方向へ。少し経って戻って来て,父は避難したらしいから食物を買いに行くので乗せて行って欲しいと乗車。しかし目指したコンビニは消灯していて岩井崎入口まで行って降車。こちらは歌津に向かう。大谷金山跡を津谷に山の雪道を南下すると小泉に入る寸前で進めない。別の国道346に進むも1㎞も進むと瓦礫で進めない。「だめです,行けませんね」と話すと,「歩いて行く」と言う。「だったら懐中電灯を貸してあげます。料金は7,480円です。」と言いますと,「あ,すみません,会社に財布を忘れて来てしまいました」と言われたので,「大丈夫です,貸してあげますから都合がよくなったら届けて下さい」と話し,Uターンしてその日の仕事は終了。震災の中,何とか無事に勤め切りました。
こうした半日を無我夢中で送ったあと,何度もの余震に襲われながらも,被災地の皆さん,そして気仙沼市と同様に,私も復興のために働くことになったわけですが,以下にあれから十三年半になりました気仙沼市の様子を述べてみます。
復興が進むと共に街の様子も震災以前と比べて一変しました。まず区画整理も進み,地震が発生して間もなくから避難所へ向かう車で渋滞が発生した道の,たくさんの犠牲者が出た箇所も充分に道幅が拡幅,整備されました。また,震災以前からの望みであった大島架橋,そして三陸道の橋も完成しまして景色も一変しました。市の主産業でもあります水産業の柱でもある加工場も軒を並べるほどまでに復興しました。市の名所の一つである陣山の高台には震災の犠牲者を祀る慰霊碑も建ちました。
こうして街の復興は順調に進んでいるのですが,一方で,住宅について浸水区域には平屋は原則不可という規制があり,そのため住宅地はまだかなりの空き地で雑草が茂っております。また,昨今,海の方も異変が起きて水揚げされる魚の種類も量も不安定になってきており,漁業に就いても大変なことだろうと思っております。
申し上げるまでもなく市民の方々も精一杯頑張ってはおりますが,他の被災地のことを見,思いますと,一様に心を痛めているのではと思います。
いつまた訪れるか分からない災害。南海トラフ,首都直下型等の不安もあります。分かりきったことですが,日頃の物心両面での準備が大切であることを訴えて,平穏な世界になるよう祈りつつペンを置きます。
今年の3月11日で東日本大震災から13年。私の3.11の記憶を呼び戻し,併せてこの13年を振り返ってみます。
あの大震災の当時,私はタクシーの運転手を職業としていて,当日の午後2時30分過ぎからJR大船渡線気仙沼駅前にて待機中でした。そしてその2時46分,忘れもしないあの地響き。直後,車が飛び上がる衝撃の縦揺れに車外に逃げて地に伏し,揺れを過して車に戻り,とっさに思ったのは川口町で働く妻の事。防災棟からは,けたたましいサイレンと津波警報が流れ,波の高さは5mとくり返す。即座に車を川口町へと走らせる。予報が変わり10mとくり返す。走り乍ら間に合うかなと不安に。携帯電話でコールすると応答あり。会社の車で全員が避難所の市民会館へ無事避難と聞きひと安心。妻達は運転手の機転でいつもなら通るはずの道は渋滞になるだろうと別ルートを走ったという。次は自宅の事が心配で市役所前でUターンし裏街道基幹農道方面へと向う道を南下,ゴルフ場下で左折,階上(はしかみ)中学前まで来るとそこから見える大海原には真白な波が押し寄せて来る様が目に入る。家に着いて家族に避難の指示をし,妻が避難している市民会館に向かって家を出たら50m前の道まで波が到達。再度妻へコールすると応答あり。迎えに行くと告げて農道を北上する。その間にも業務無線から情報が流れて被害の大きさが伝わってくる。携帯電話で二度の応答ができたことの不思議と妻たちのドライバーの機転に感謝しながら避難所へ向かう。避難所まで700~800m,海抜約20mの三日町まで波が到達。途中で進行出来ないと警備員に制止されるも,お客様が待っているからとお願いして瓦礫の中を突き進む。市民会館に着くと妻達が玄関前で待って居て3人が乗車。帰ろうとすると警備員が進行出来ないと言う。今来たのだから通してと願って帰路に就く。農道を経て長磯で妻以外の2名が下車,自宅で妻を降ろして再び会社に向う。到着すると2名のお客さんが待っていた。一人は長磯まで,一人は歌津までと言う。また農道を南下し長磯に向かう。走り続けると道をふさぐ様に家が流れて来ている所があった。一人のお客さんが,「あっ私の家だ,父が居るはずだ」と下車し自宅方向へ。少し経って戻って来て,父は避難したらしいから食物を買いに行くので乗せて行って欲しいと乗車。しかし目指したコンビニは消灯していて岩井崎入口まで行って降車。こちらは歌津に向かう。大谷金山跡を津谷に山の雪道を南下すると小泉に入る寸前で進めない。別の国道346に進むも1㎞も進むと瓦礫で進めない。「だめです,行けませんね」と話すと,「歩いて行く」と言う。「だったら懐中電灯を貸してあげます。料金は7,480円です。」と言いますと,「あ,すみません,会社に財布を忘れて来てしまいました」と言われたので,「大丈夫です,貸してあげますから都合がよくなったら届けて下さい」と話し,Uターンしてその日の仕事は終了。震災の中,何とか無事に勤め切りました。
こうした半日を無我夢中で送ったあと,何度もの余震に襲われながらも,被災地の皆さん,そして気仙沼市と同様に,私も復興のために働くことになったわけですが,以下にあれから十三年半になりました気仙沼市の様子を述べてみます。
復興が進むと共に街の様子も震災以前と比べて一変しました。まず区画整理も進み,地震が発生して間もなくから避難所へ向かう車で渋滞が発生した道の,たくさんの犠牲者が出た箇所も充分に道幅が拡幅,整備されました。また,震災以前からの望みであった大島架橋,そして三陸道の橋も完成しまして景色も一変しました。市の主産業でもあります水産業の柱でもある加工場も軒を並べるほどまでに復興しました。市の名所の一つである陣山の高台には震災の犠牲者を祀る慰霊碑も建ちました。
こうして街の復興は順調に進んでいるのですが,一方で,住宅について浸水区域には平屋は原則不可という規制があり,そのため住宅地はまだかなりの空き地で雑草が茂っております。また,昨今,海の方も異変が起きて水揚げされる魚の種類も量も不安定になってきており,漁業に就いても大変なことだろうと思っております。
申し上げるまでもなく市民の方々も精一杯頑張ってはおりますが,他の被災地のことを見,思いますと,一様に心を痛めているのではと思います。
いつまた訪れるか分からない災害。南海トラフ,首都直下型等の不安もあります。分かりきったことですが,日頃の物心両面での準備が大切であることを訴えて,平穏な世界になるよう祈りつつペンを置きます。