コンテンツへスキップ

本物語

一覧へ戻る

第80号 2024.11.25

サンドロ・ボッティチェッリ小考

島本 龍次郎

 ルネサンス期の画家の中では,サンドロ・ボッティチェッリ(1445~1510)が一番好きな画家となった。二十代後半の頃には,宗教絵画や中世の絵画にほとんど関心がなくて,印象派などを中心に見ていたが,三十代半ばにヨハネス・フェルメールに関心を持つようになった。それから少し経ってさらに遡ってイタリア・ルネサンス期の画家たちにも興味が湧いてきて,中でもボッティチェッリを特に愛好するようになった経緯がある。
 サンドロ・ボッティチェッリは本名をアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピといい,フィレンツェで皮なめし職人の家庭の四人兄弟の末っ子として生まれた。ボッティチェッリというのは長兄が太っていたので「小さな樽」というあだ名がついており,この名が有名になり家族全員がボッティチェッリと呼ばれるようになった。十九歳の時から三年間,プラートのフィリッポ・リッピの工房で修業をしている。その後スポレートへ行き,アントニオ・デル・ポッライオーロやアンドレア・デル・ヴェッロッキオの工房に出入りし,彼らの影響を受けて自らの絵画様式を進化させている。そして1469年にはフィレンツェで独立した工房を持つようになり,メディチ家のプラトン・アカデミーの学者サークルに参加している。メディチ家の支援を受けたボッティチェッリは,一際芸術性の高いヴィーナスを描いた。そして師のフィリッポ・リッピの作風からも離れた,ボッティチェッリ独自の作風で宗教画やギリシャ神話を多く描いた。しかし1492年,ロレンツェ・デ・メディチが没すると同時にドミニコ派の修道士サヴォナローラが市政にかかわるようになり,厳しい宗教性を要求される雰囲気となり,ボッティチェッリの絵画から明るさが消えてゆく。サヴォナローラは1498年に焚刑により処刑されるが,ボッティチェッリはついに1501年には絵筆を執ることをやめ,1510年に六十五歳で没している。
 ボッティチェッリの最初期の作品はまだリッピの工房に居た二十歳頃からで,その頃描いた『聖母子と二人の天使と若き洗礼者聖ヨハネ』の聖母マリアの顔は,師匠のフィリッポ・リッピの聖母子像の顔にそっくりである。つまりはリッピの妻のルクレツィア・ブーティが当時のボッティチェッリの理想の女性像であったといえようか。プラートよりフィレンツェに帰り,独立して描き始めた二十五歳頃の聖母マリアの顔は,ずいぶんと瓜実顔となり又立体感のある顔となっている。もうこの頃はプラトン・アカデミーに所属しており,メディチ家から支援を受けていた。フィレンツェにおける彼の名声は高くなり,1481年には教皇シクストゥス四世からお呼びがかかり,システィーナ礼拝堂にフレスコ画の壁絵を描いている。1482年にはフィレンツェに帰ってきて,それからギリシャ神話を主題にした作品を仕上げている。
 この神話を主題にした作品のうち『春プリマヴェーラ』の花の女王,『ヴィーナスの誕生』のヴィーナス,そして聖母像の円形トンド形式の『マニフィカートの聖母(マリア頌歌)』と『柘榴の聖母』は,間違いなくフィレンツェ一の美女と讃えられたシモネッタ・カッターネオ・ヴェスプッチをモデルとしたもので,その美貌は,シモネッタをさらにボッティチェッリ好みにしたものと思われ,絵画の歴史上でも最も清淑で典雅で艶麗なる美貌を創出したものではないかと考えられている。これら以外でシモネッタがモデルと思われるものはウフィッツィ美術館の『パラスとケンタウロス』のパラス,パリのルーブル美術館の『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』,ミラノのポルデイ・ベッツォ―リ美術館の『書物の聖母』くらいであると考えている。この私見は,ボッティチェッリの描いたシモネッタの肖像画三点の美しい横顔の容貌からの自分なりの推測によるものである。この三点の肖像画は,年代順にはベルリン国立絵画館にある『若い女性の肖像画』,フランクフルト美術館にある『若い女性の肖像画』,そして日本で唯一の丸紅保有の『美しきシモネッタ』である。これらの三点のうち,丸紅保有の『美しきシモネッタ』は縁があって丸紅本社で拝観したことがある。
 画家にとっては絵画へのインスピレーションを与えてくれる対象が必要である。それは多くの場合秀麗な女性であることが多い。ボッティチェッリにとって,それはシモネッタであったのではなかろうか。ファム・ファタールとは運命的な恋愛の相手とか,または男を破滅させる魔性の女という意味であるが,ある意味でシモネッタはボッティチェッリにとってファム・ファタールであり,またマドンナであったのではなかろうか。シモネッタとの邂逅がもしもなかりせば,ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』をはじめとする名画は,また違った表現の絵として描かれたことであろう。
一覧へ戻る