本物語
第81号 2025.3.31
我家のルーツを探る旅 (一)
岡本 崇
直木賞で有名な直木三十五が,代用教員として1年間,私の母校の白銀北小学校(奥谷尋常小学)に勤務していた。彼の自叙伝を読むと「宗一、岡本はん走って、行って、これ何ぼや聞いといで」「大和国吉野郡白銀村…五條の町から山へ入ること三里半、銀峯山中腹に建っている学校である」「山の中の平和な――もし、私が、文筆で暮らせなくなったら、ああいう所へ行けば、まだまだ日本も、のんびりしていると思うている」と書いてある。岡本家の分家が大阪谷町で呉服商をしていたし,私の曾祖父,岡本儀三郎(徳永)が明治13年から27年迄,堺県会議員・大阪府会議員・奈良県会議員をしていたので,相撲の「タニマチ」と呼ばれた,谷町に住む薄(すすき)恕一(じょいち)外科医とも入魂であったから,薄医院でアルバイトをしていた直木三十五を,明治43年に山奥の複式学級の小学校へ招いたのだろう。火事で焼けた岡本家の再築完成は明治35年頃。我が家からは,丘を挟んで真正面に小学校がよく見えた。直木三十五の直筆の履歴書や我が家の家宝は,五條市にある「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されている。
私は第二次大戦中に大阪から疎開して奈良県五條市西吉野町西新子(吉野郡白銀村)の山奥で育ったので,小さい頃は遠くへ旅行することが無く,生まれて初めての旅行が,1956年の白銀北中学校の卒業旅行で,鎌倉と東京だった。ところが,その鎌倉で,私の26代前の祖,千葉常胤や,25代前の祖,東胤頼(25歳)や,その兄の千葉胤正(39歳)が鎌倉幕府設立に貢献し,千葉常胤(62歳)が源頼朝(33歳)に父のように慕われていたということを知ったのは1994年だから,38年後であった。小・中学時代の写真は皆無に近いが,鎌倉大仏の前で,7人で写した写真だけが残っている。私の右隣の前君は勲六等,左隣の堀君は農業大賞を受賞しているし,その隣の堀内君は,柿農家をやりながら東京・大阪・奈良市で,直営のカフェ&ショップも経営している。初めて訪問した時は,鎌倉大仏の近くに,我が祖,千葉一族の屋敷が有ったとは全く思いもしなかった。木造の鎌倉大仏は1243年に完成したと伝えられているが,詳しいことは全く分からないらしい。その頃の,千葉一族の没年を調べると,千葉常胤1201年,千葉胤正1203年,東胤頼1228年,東重胤1247年,東胤行1273年。私の24代前の祖で,70歳で亡くなったと思われる東重胤が,66歳の時に鎌倉大仏が完成している。
東重胤は,鎌倉幕府3代将軍源実朝の側近で,千葉氏の庶流である東氏の二代目に当たり歌人でもあった。実朝の重胤の寵愛振りを示す出来事として『吾妻鏡』では1206年に,重胤が現在の千葉県東庄町に帰ってしまい,帰ってこないので重胤に和歌を送って帰国を促した。実朝が,重胤に対して帰国を促した歌は『金槐和歌集』に集録されている。重胤の記述は実朝暗殺の1219年以降不明となる。この事件後,実朝の近習を中心として多数の御家人が出家したとあるので,重胤もこれに従って出家したと思われる。出家は仏道の生活に入る事であるから,実朝の霊を慰める為に鎌倉大仏が造られたとも考えられる。頼朝の依頼により石清水八幡宮にて千日参籠して大般若経を無言転読する行を行っていた天台宗の僧,日胤は1180年に亡くなっているが,重胤の叔父である。重胤自身も晩年は,浄土宗の開祖,法然上人の弟子となっている。「世界は一家 人類みな兄弟」とは云うが,「東胤頼が今上天皇の直系の祖先」というネット情報もあり,その系図まで掲載されているので大変興味深い。
初めての関東旅行で鎌倉大仏を見た後,東京本郷の旅館に宿泊したが,田端に住んでいたペンフレンドの園部君がお母さんと来てくれた。東大を見たいからと夜間に抜け出し,案内してもらったのが東京大学の赤門。加賀藩上屋敷の御守殿門だった。
4年後,赤門を飛び越して入学したのが高崎経済大学。高崎市には千葉一族の信仰した妙見神社があり,大学の寮があった岩鼻町は私の25代前の祖,東胤頼が前橋市の蒼海城に住んでいた,千葉常胤から相続していた所。大学では東大で超有名だったが,公職追放になった難波田春夫先生に亡くなられる迄ご指導頂いた。私は大学を出て,直ぐに伊藤忠商事金沢支店に行ったが,千葉一族の難波田先生の祖が,市原と名を変えて加賀藩におられて,そのお墓が金沢市内にあった。鎌倉幕府は源氏の頼朝によって開かれたが千葉一族は桓武平氏。大学の恩師,樋口清之先生は,鎌倉幕府は伊勢平氏と利害が対立していた関東平氏が源氏再興を企む頼朝と勢力併合したのだと。
2023年8月,家内と二人の孫を連れて鎌倉に行く。10日夜,後楽園球場で巨人・阪神戦を見たが,始球式に,岡本家が新築祝いを貰っていた尾野家の子孫の,西吉野町出身の尾野真千子さんが登場し,平岡五條市長も柿のPRをされたので吃驚。 11日は大磯ロングビーチで泳ぎ,12日は鎌倉市内を満喫した。(続く)
私は第二次大戦中に大阪から疎開して奈良県五條市西吉野町西新子(吉野郡白銀村)の山奥で育ったので,小さい頃は遠くへ旅行することが無く,生まれて初めての旅行が,1956年の白銀北中学校の卒業旅行で,鎌倉と東京だった。ところが,その鎌倉で,私の26代前の祖,千葉常胤や,25代前の祖,東胤頼(25歳)や,その兄の千葉胤正(39歳)が鎌倉幕府設立に貢献し,千葉常胤(62歳)が源頼朝(33歳)に父のように慕われていたということを知ったのは1994年だから,38年後であった。小・中学時代の写真は皆無に近いが,鎌倉大仏の前で,7人で写した写真だけが残っている。私の右隣の前君は勲六等,左隣の堀君は農業大賞を受賞しているし,その隣の堀内君は,柿農家をやりながら東京・大阪・奈良市で,直営のカフェ&ショップも経営している。初めて訪問した時は,鎌倉大仏の近くに,我が祖,千葉一族の屋敷が有ったとは全く思いもしなかった。木造の鎌倉大仏は1243年に完成したと伝えられているが,詳しいことは全く分からないらしい。その頃の,千葉一族の没年を調べると,千葉常胤1201年,千葉胤正1203年,東胤頼1228年,東重胤1247年,東胤行1273年。私の24代前の祖で,70歳で亡くなったと思われる東重胤が,66歳の時に鎌倉大仏が完成している。
東重胤は,鎌倉幕府3代将軍源実朝の側近で,千葉氏の庶流である東氏の二代目に当たり歌人でもあった。実朝の重胤の寵愛振りを示す出来事として『吾妻鏡』では1206年に,重胤が現在の千葉県東庄町に帰ってしまい,帰ってこないので重胤に和歌を送って帰国を促した。実朝が,重胤に対して帰国を促した歌は『金槐和歌集』に集録されている。重胤の記述は実朝暗殺の1219年以降不明となる。この事件後,実朝の近習を中心として多数の御家人が出家したとあるので,重胤もこれに従って出家したと思われる。出家は仏道の生活に入る事であるから,実朝の霊を慰める為に鎌倉大仏が造られたとも考えられる。頼朝の依頼により石清水八幡宮にて千日参籠して大般若経を無言転読する行を行っていた天台宗の僧,日胤は1180年に亡くなっているが,重胤の叔父である。重胤自身も晩年は,浄土宗の開祖,法然上人の弟子となっている。「世界は一家 人類みな兄弟」とは云うが,「東胤頼が今上天皇の直系の祖先」というネット情報もあり,その系図まで掲載されているので大変興味深い。
初めての関東旅行で鎌倉大仏を見た後,東京本郷の旅館に宿泊したが,田端に住んでいたペンフレンドの園部君がお母さんと来てくれた。東大を見たいからと夜間に抜け出し,案内してもらったのが東京大学の赤門。加賀藩上屋敷の御守殿門だった。
4年後,赤門を飛び越して入学したのが高崎経済大学。高崎市には千葉一族の信仰した妙見神社があり,大学の寮があった岩鼻町は私の25代前の祖,東胤頼が前橋市の蒼海城に住んでいた,千葉常胤から相続していた所。大学では東大で超有名だったが,公職追放になった難波田春夫先生に亡くなられる迄ご指導頂いた。私は大学を出て,直ぐに伊藤忠商事金沢支店に行ったが,千葉一族の難波田先生の祖が,市原と名を変えて加賀藩におられて,そのお墓が金沢市内にあった。鎌倉幕府は源氏の頼朝によって開かれたが千葉一族は桓武平氏。大学の恩師,樋口清之先生は,鎌倉幕府は伊勢平氏と利害が対立していた関東平氏が源氏再興を企む頼朝と勢力併合したのだと。
2023年8月,家内と二人の孫を連れて鎌倉に行く。10日夜,後楽園球場で巨人・阪神戦を見たが,始球式に,岡本家が新築祝いを貰っていた尾野家の子孫の,西吉野町出身の尾野真千子さんが登場し,平岡五條市長も柿のPRをされたので吃驚。 11日は大磯ロングビーチで泳ぎ,12日は鎌倉市内を満喫した。(続く)