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本物語

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第81号 2025.3.31

我 ら 辰 巳 の 会

佐藤 辰夫

 東京の最西部で病院事業始めて四半世紀を迎えようとしている。本当の大人(老
人?)になってからの心を割って話せる友人グループが出来,名付けて「辰巳の会」,昭和15年・16年生まれの4人の会である。何れも84~5歳で当然ながら,ここまで来るのに友人の多くは,この世を去った者・自宅でこもりきりになった者・現役世代に名跡を譲り,言わば「ご隠居様」に成っている者が多いのに,相変わらず現役を続けていることが一番の共通項であって,元気の具合も揃ってすこぶるで,色気?茶目っ気?負けん気?冒険心を失っていないことがお互いの暗黙の了解事項である。この仲間の属性を分析してみると,大変面白い結果が出てくると思われる。
 A氏は,特に我が学生時代の大きな学生運動のうねりの中で思い出深く,共感を覚える御仁である。就学時代は学生運動が盛んな時代で,振り返ってみると,1960年は〝安保〟の真っ盛りで安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する為の条約から,日米共同防衛を義務付けたより平等な条約に改正するものであった。アメリカでの交渉から岸首相が帰国し,新条約の承認を巡る国会審議が行われると安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾した。締結前から,改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や,在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米軍犯罪免責特権への批判により,反対運動が高まっていた全学連は「安保を倒すか,ブント(共産主義者同盟)が倒れるか」を掲げ,総力を挙げて反安保闘争に取り組んだ。まだ第二次世界大戦終結から日が浅く,人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや,東條内閣の閣僚であった岸首相本人への反感があったことも影響し,「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの」として,多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である日本社会党や共産党は組織・支持団体を挙げて全員動員することで運動の高揚を図り,総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり行ったが,全学連の国会突入戦術には表面的な立場をとり続けた。
 新安保条約承認に際して行われた,会期延長の強行採決。その国会周辺でデモを行い警官隊と衝突,学生18人と警察官10人が重傷を負った。以降も多くの重傷者を出しながらデモは行われた。しかし衆議院日米安全保障条約等特別委員会で,新条約案が強行採決され,続いて衆議院本会議を通過した。委員会採決では,自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため,右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し,警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。これは,その後に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものであった。こういった背景の中,A氏は学生運動の中核指導者として活動した実績を持ち,卒業後も所謂勤務者としての道を歩まず,法人を設立し,市会議員から都議会の保守党幹部の道を歩んでいる。激しい左翼としての安保闘争の後に,保守党層に切り込むなど,今日の存在の基礎を確立している。このA氏の行動が自分の時代と併せて大きな共感を持つのである
 B氏。家具の小売商から,東京郊外の住宅事情の発展に合わせて展開。1973年,アルミ建材商として創業。数年後,株式会社設立,大手建材会社フランチャイズTFCに加盟。数年して本社を現在地に移転。87年外装事業をスタート,更にインテリア事業をスタート。数年して〝子会社〟を設立。世紀が変わって埼玉県内支店・多摩地区支店を開設。また更に2年後,本社「新社屋」完成,その数年後子会社を設立。翌年神奈川支店を開設,と発展し,現在は,支社・支店を合わせて数か所の拠点を持ち,住宅機器の販売を手掛け,昨年会長に就任し総括している。
 C氏は,菓子を手掛け,地元物産の紹介に努め,広範に販路を広め,アスレチック練習場,コンビニエンス,外国製自動車の販売店経営などに展開,現在は会長職に就いている。青梅市西地区には,河合玉堂美術館,吉川英治記念館,パリで日本酒の金賞を取った酒造会社運営の〝有名レストラン〟などがあるが,東地区にはそういった名のあるものはなかった。そこでC氏は,塩船観音寺を再興して,花の寺として再構成し,名所としたことなどが挙げられる。
 我が半生を思い,人生の終盤に至って,このような知己を得ることは何と幸せなことかと,何時も声が掛かること,又かける時期を,心待ちにしている昨今である。何時も顔を合わせる,共通の酒場で,一杯やって,たまたまその居酒屋の運営者が同年とのことで,気を置くことなく,お互いを思いやっている会をもっている。題して7回り越え『辰巳の会』である。会を終えてお互い言い合うことは「先に行(逝)くなよ!」の一言である。
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